A vision of success ! 何がええの? 恋ひわたるべく 身を尽くし(粗忽)(8)

画像群馬県の白根山の山頂近くの路肩で見かけたナナカマドであります。高山の秋を告げる紅葉としてよく紹介される物でありますが、樹木のほんの一部が色づきまして、霧の掛かった山中でひときわ目立つのであります。故郷の山々とよく似ているのでありますが、植生分布が違っておりまして、これは何だろうと撮影いたしました。

備長炭にする樹木というのは本当でしょうか。

いつでしたか、テレビで和歌山県の備長炭の生産風景を見たのですが、これは仰天いたしました。普通に考える炭焼き風景ではありませんで、炎との戦いと言いますか、真っ赤に焼けた炭の姿は、危険な感じでありまして、それを扱う炭の職人さんの様子は、とてもじゃないが普通の人には無理でありまして、映像だけでもすごい技術を感じるんですが、おそらくは撮影させない秘密がいくらでもあるように感じました。誰がどのようにあのような手順、技術を編み出したのでありましょう。凡人がいくら考えても思い付くような代物ではなく、職人さんの技術は真似することは不可能と感じさせたのです。普通には燃えないとされるナナカマドを焼き上げた物は、特上の高級品なのだそうです。曲がりくねった原木をどう扱うか、どのようにまっすぐの炭にしてしまうか、一目瞭然ですが、自分が思い付く知恵ではありません。それはそれは驚くほどの映像でした。

   白根山の山頂には、いわゆるお釜がありまして、エメラルド色の水をたたえております。

画像塩酸・硫酸の水なのだそうでありまして、しかしエメラルド色に見える原因については推測しているだけなのであります。その水を汲んできてもエメラルドグリーンには見えないと、ウィキペディアは教えてくれるんですが、では、執筆した方は見たことがあるようなのであります。この群馬県の白根山は、草津白根山と呼ぶことがあるようですが、以前のようにお釜のそばまで行けなくなったそうで、遠くから眺めるように整備されておりました。

登山道にはウグイスが鳴いて、霧が立ちこめました。

相当近くまで車で行けるのですが、最後は登山道を登ります。入り口に杖と言いますか、ストックといいますか、ウォーキング・ポールを貸し出していまして、これを頼りに登るのであります。山頂付近は高山植物が至るところに生えていまして、灌木の茂みを抜けると行き止まりとなって、お釜を遠くから眺めるんですが、なかなかの絶景であります。那須の茶臼岳と比較しましても、どちらもなかなかの自然でありまして、軍配は行事預かりということにしておきたいと思います。

   村雨の 露もまだ干ぬ まきの葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮(『百人一首』第87番・寂蓮法師)

よく考えると、「村雨」も「槇の葉」も馴染みのない言葉でありまして、首をひねるばかりであります。人名と言いますか、名字にはよくある物ですから、なんとなく知っているつもりで、実はまったく知らないのであります。「村雨」というのは、驟雨のことであるような気がするのですが、今度は驟雨がどういう雨なのか考え込んでしまいますね。にわか雨、通り雨ということで、天気の移り変わりの激しいことでもありますから、山の中であるとか、季節の変わり目であるとか、地域的な問題もありそうであります。「槇の葉」のほうは、どうやら針葉樹の杉や檜のことでありまして、現在の「槇」は含まないのではないかという説を知りました。そうなのかも知れませんね。雨のもたらした雫が乾かないうちに、迫る夕暮れの薄暮の中で霧が樹木を包んでゆく様子ですから、時間の推移があって動的でありまして、最後は名詞止めで一幅の水墨画にまとまります。露という微細な物から、葉っぱに、そして全山の風景というふうに広がって参ります。

   非常に分かりやすい風景ではないかと思うのですが、単に風景をめでて終わりでしょうか?

まず、夕暮というのがポイントになりそうです。当時の結婚形態では、別居が普通ですから、男性は夕暮れを待って行動を開始いたします。女性の家目がけて出かけてゆくわけであります。通常は牛車を使いますが、あせると馬に乗ったりするのであります。女性の方は、いつ来るかと待ちわびるわけでありまして、現代の同居している男性の帰宅を待つのよりはスリリングな時間帯であります。雨の露というのを、涙の比喩と見なせば、涙で濡れた袖を乾かすというのは、夫の訪問が途絶えがちであることを意味しますから、「まだ干ぬまきの葉」というのは、愁いを帯びた女性の頬であるとか、涙をぬぐったばかりの袖の比喩となる可能性が残ります。ここまで言えば、もはや「霧立ちのぼる」の「霧」が何者かの比喩であり、「立ち」「のぼる」という動詞がどちらも人の行動につかうことの出来る動詞であることは、言わずもがなの指摘であります。激しく、そして気まぐれに降る「村雨」を以前の恋人または夫の比喩として、やさしく、あるいはクールに槇の葉をつつむ霧は、新しい恋人もしくは夫のことなのであります。今度の恋は成就するのかどうか、それは「飽き」の夕暮という言葉の響きによって、波乱含みとなることは間違いありません。あれえ、これは恋愛関係の縁語を使った、巧妙な季節の歌ではありませんか。『新古今集』の秋歌下・491番に入っておりますが、その前後はみんなこんな感じでありまして、恋愛気分が横溢している季節の歌なのであります。やったー、またしても大手柄?いえ、まあ思いつきです。

   難波江の 葦のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき
                                 (『百人一首』第88番・皇嘉門院別当)

この作者は、どちら様でございましょう。とんと見たり聞いたりしたことがありませんので、歌のうまさと言いますか一発屋といいますか、たった一首の佳作によって、100人に当選したと言うべきかも知れません。注釈書は、この作者の周辺を探って、藤原定家が採用した根拠をくまなく探ったようであります。歌の言葉は、「難波江」も「葦」も「みをつくし」も、すでに『百人一首』の他の歌に登場しまして、目新しくはないのであります。歌物語には、「葦刈り伝説」というのがありまして、古代の悲恋の典型なんでありますが、そう言ったことも連想いたします。注釈書は当然その辺を丹念に指摘している物と思うのですが、念のため調べてみたいと思います。

    何がええの? 恋ひわたるべく 身を尽くし(粗忽)
     ひとよひとよに ひとみごろかな(粗忽)

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