A vision of success ! 何がええの? 恋ひわたるべく 身を尽くし(粗忽)(9)

画像街角のサルスベリを観察してみるんですけれども、何かこう、枝がひょろりと幹から出ていまして、先端が垂れ下がりまして、ネコジャラシの束のような感じであります。樹形が定まっていない様子でありますから、果たして美しいと感じる人がいるのかどうか、他人の感想を聞いてみたい物です。白い花、紅い花、桃色もさまざまでありまして、とりあえず夏模様には違いありません。我が家のは、こんもりと広がり、花のボリュームがけっこうあるような感じです。

我が家のサルスベリの一部です。

全景を撮しますと、ご近所のお家がまる見えになってしまいますし、我が家の古ぼけた様子も写りまして、とてもみれた物ではありません。実は家探しをしました時に、このアングルで写っておりまして、住宅会社の社員の方が撮影した物だと判明しました。つまり、案内なさった方が「私が撮影しました!」と言うんですが、冬枯れのサルスベリが真ん中にありまして、「バイク置き場」とキャプションがありまして、どう見てもゴミ屋敷?というような雰囲気でして、もっと良いアングルがあるだろうにとうめいたのでした。ちょっとずらすと、それはそれは美邸なのですが、「バイク置き場がある」というのは、一体誰にアピールするんでしょうか?自転車置き場ではいけないのか?とも思いましたが、自転車と言わず、なぜバイクなのかは謎であります。

     あぶら蝉 鳴くや文月の さるすべり(粗忽)

画像昨日から、旧暦の文月(ふづき)に入りまして、本日は旧暦七月の二日であります。月は朔(ついたち)頃ですから、まだ三日月にも及ばず、あるかないかの月の影であります。蝉がようやくか細く鳴き始めまして、去年の大合唱からすると、まったく物足りないのであります。蝉の発生にも波があるでしょうから、去年が当たり年とすれば、今年は少ないかも知れませんが、それでもようやく鳴き始めました。 

まだ咲いているアジサイをどうぞ。

大きな花弁は盛りを過ぎて色が褪せてきておりますが、真ん中の小さな花弁にご注目でありまして、10分の一くらいのサイズの花が咲いているのであります。いじらしいと言いますか、真ん中にごちゃごちゃと幼稚園児が戯れている周りを、今やあでやかな幼稚園の先生たちが引率している感じでありまして、夏祭りのお泊まりのような感じなんですね。幼稚園によっては、夏に一泊して、キャンプファイアーをしてみせて、浴衣を着てスイカを食べて、お泊まりしたりいたします。ホームシックで泣き出して夜中にお母さんがお迎えなんてこともあるらしいのでありますが、そんな幼い子がいたことが遠い昔のようです。ふっと、連想しました。

    難波江の 葦のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき
                                 (『百人一首』第88番・皇嘉門院別当)

『千載集』の恋歌三・807番に出て来るんでありますが、ぐっと恋にのめり込む気持ちを表現しているのであります。この辺が、単独で歌を鑑賞する『百人一首』の注釈書では、ちょっと薄味になりまして、大方は「べき」を推量の意味ととらえて、「恋い慕い続けるのだろうか」と末句を解釈するのが、かなり気になるのです。そう言いたいのなら、「みをつくしても 恋やわたらむ」とあればいいので、「べき」はニュアンスが違うんじゃないの?と突っ込みを入れたくなりますが、岩波書店刊行の新日本古典大系というシリーズの『千載和歌集』は、「恋い続けなければならないのでしょうか」と味付けがなされておりました。「べし」というのは、運命を予感して「運命によって、~してしまいそう」というような解釈とか、「~という運命に違いないわ」という思い込みを表すはずでありまして、何のことはない誰も思い入れて歌を解釈してはいないのです。88番まできたら、残りはこてこての新古今歌人ですから、勅撰集にいくらも歌の入っていない泡沫歌人の歌など、修辞技巧を説明して終わりであります。

    この歌の要は、「ゆゑ(故)」という名詞で、これは重大事をひきおこした軽い原因を示す物らしいのです。

「たった一晩の行きずりの恋なのに、それがもとでこの身が燃え尽きそうなくらい、恋い慕い続けてしまいそうですわ、あたくし」というような、なかなか妖艶な内容のはずでありまして、これをまあ、お手持ちの注釈書の訳と付き合わせていただくと、皆さんが色恋には無縁の方たちであることがよくわかります。このあたりになると、講談社文庫から出ている『百人一首』の著者、大岡信さんは鋭く、的確なのであります。そう言えば、国語学者の大野晋さんは、大岡信さんから私信をもらった時に、宛名の「晋」の字がとてもきれいで感心したというようなことを述べておりましたね。他の人とは段違いで、ほれぼれするほどうまいと言っておりました。

    修辞技巧の説明は必要でありましょうか?よく分からないけれども、考えてみることにいたします。

「難波江の葦の刈り根の一節」と言うことで、淀川の河口付近である摂津の国の難波の、晩秋または初冬の風景なのであります。これは、労働者が駆り出されまして、大変な重労働、食い詰めた人の最後の稼ぎ場所と言うことなのであります。刈り取った葦は、種々加工されて家周りの貴重な調度品に早変わりいたします。屋根に吹いたりもするんでありますから、大量に刈り取り、自然のもたらす貴重な資源となっていたのであります。刈られた後の根っこは、一節あるかないか、水辺はきれいさっぱり、夏の風景は一変してしまうのであります。そうなると目立つのは、船の航行の目印となる「澪標」でありまして、冬から春にかけて、澪標が目立ちまして、船はやすやすとこの難波の地を「渡る」ことができそうなんであります。つまりこの歌には、背景に難波の冬景色が仕込んであるのでありまして、船の航行と同じ、危険を冒してどこまでも行っちゃおうかしらと、主人公は思い悩むわけですね。身分社会のなかで、定められた相手と結婚するよりも、見ず知らずの一晩のお相手が恋情を掻き立てまして、熱い恋の炎の自由な恋愛への渇望があるわけです。自由に結婚相手を選ぼうとしたら、日本では婚姻率が下がってしまいました。

    そりゃあ、恋愛上手な人同士がくっつきますから、誰からも相手にされない人が残ってしまいますよ。

第二次世界大戦で日本は手痛い敗戦を経験したんですね。近代国家のナショナリズムは粉々でありまして、テロリズム国家の悪名が世界に残ってしまったわけです。平和と自由を旗頭に戦後社会を築き直したつもりですが、ジャパンアズナンバーワン (Japan As Number One) などとおだてられまして、有頂天になったあげく、バブルに酔いしれまして、これがすぐに崩壊しました。バブルに躍った国は、長期低落傾向に陥りまして、100年200年浮かび上がることが出来ないのであります。日本もアメリカも実はバブル崩壊しておりますから、お金持ちほど損失を出しておりまして、だから会社は正社員など雇わないわけですね。上手くいったのは幻影でありまして、貴族社会の末期、平家の全盛という物も同様のものであったわけです。バブルが崩壊しても目には見えませんが、その崩壊を決定的に演出するのが自然災害でありまして、余力のない国家は復興がままならなくなるのであります。江戸時代末期の浅間山の噴火は、その一つの表れであります。江戸幕府は、ずるずると支配体制を弱めてしまいました。平安初期の貞観地震と大津波は、建設途上の律令国家を揺るがし、せっかくの新制度はあえなく縮小していったことでありましょう。というようなことを、まったくの知ったかぶりで書けるほど、実は明らか。なかなか上手くいったぞ、けっこう成功したんだ、というのは、幻影なのであります。恋愛もまた、幻影であります。成就したぞ、素敵な相手に出逢ったぞ、というのは自分の期待が姿を変えたものに過ぎません。

   珍しく、最後にまとまりましたね。いよいよ、ラストスパート。案外実り多いなあと思います。

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