Dinner is ready !  来ぬ人を 待つ塩鮭の 夕餉かな(粗忽)(3)

画像毎日日没時間が早まっておりますので、昨日と同じタイミングで庭に出ましたら、迫る夕暮れに庭はすでに暗くなりまして、目当ての植物が見えないくらいであります。フラッシュが光りまして、御覧のように桃色の花びらが写真に収まりました。昨日までの花びらは白い花びらでありまして、これは恋人の色でありますが、じゃあ桃色の方は何の色なのでありましょう。

セイヨウフウチョウソウ(西洋風蝶草)、またはクレオメ(Cleome)。

こうやって毎日毎日撮影していると、何だかだんだん深みにはまりそうですが、しかし撮影時間は5分くらいでありまして、大した労力も要らないわけでありまして、ただそこに問題がいろいろありますね。自分の肉眼で見ておりますと遠目にぼんやり、近付くと色々見えまして、そうやって観察している状態と、カメラを向けて撮影しデータをパソコンに取り込んで眺めるのとでは、まったく違う鑑賞法と言えるでしょう。写真だけを情報源にしたり、ネット上の映像というのは、それはそれで有益ですが、肉眼で得る情報とは異質なものでありますね。同じじゃん、などという人がいるなら、じゃあ自分の日常をせっせと撮って、自分の実人生と同じと言えるのかどうか、聞いてみたい気がします。まあ、常識的にも違うものでありますが、しかし我々はうっかりすると写真を手がかりにそれを実情として受け入れてしまいそうですね。

   本日8月9日の日出は4・55、日入は18・39、月出は15・11、月入は0・08(東京)、昨日の朝刊から。

画像ソーラーシステムのライトであります。昼間充電していて、夜になると照らすのであります。もう一年くらい毎日点灯していますから、これは優れもの。「島忠」というお店で買ってきましたが、さほど高くなかったような気がいたします。庭を照らす灯籠があるんですけれども、電球を替えても点きませんので、あきらめてこのライトを購入いたしました。実は灯籠の電源ケーブルは、家庭菜園の下を通っていまして、耕したら途中で切れている配線が見付かりました。私が切ったのではなく、先住民が切ってしまったようでありまして、たぶん10年くらい前には用をなさなかったことでしょう。

電力需要にどれだけソーラーシステムは役立つのか。

役立たないでしょうね、天候変化の激しい日本ですから、あんまり期待できないことでしょう。パネルの表面の汚れをどうするのか、それは改善していけるにしても、パネルを設置する場所は、やっぱり屋上中心でしょうから、それ以外の場所を塞いでしまうのはもったいないことですね。それとも、ずらりと設置して、その下を有効活用するような方向を模索するんでしょうか。砂漠に設置するのがベストであると向坊隆先生はご指摘でしたが、砂漠のある外国との関係がうまく保てないと、設置しただけで終わってしまうでしょう。それこそ、日本のアキレス腱になりかねませんから、難しいのであります。

     み吉野の 山の秋風 さ夜更けて 古里寒く 衣打つなり(『百人一首』第94番・参議雅経)
     み吉野の 山の白雪 つもるらし  古里寒く なりまさるなり(『古今集』巻六・冬・325番・坂上是則)

雅経の歌は、『新古今集』の秋下・483番に入っておりまして、どうやら百首歌を詠んだ中の一首で、「擣衣」を読んだ題詠の歌なのであります。つまり、これも別に実体験を歌にしたわけではなくて、当時宮廷で流行していた百首の歌を詠むなかで、当然の如く古歌を本歌取りして詠んだわけでありまして、今風に言うとパロディでありますが、古歌を脱構築して新たな趣向を提示しているわけで、なかなか面白いのであります。見ると、初句と四句目がまったく同じでありまして、二句目の「山の」という三文字も同じでありますが、利用した分量は規則ぎりぎり、ただし、季節が冬から晩秋に替えた程度では、ほとんど違いは無く、おそらく当時としては取り過ぎと思われたことでしょう。「なり」は本歌は断定の助動詞ですが、雅経の歌は推定の用法でありまして、「衣を打つ音が聞こえる」と訳したりするわけであります。そうなると、問題は歌を詠んでいる主体はどこにいるのか、どこで砧(きぬた)の音を聞いているのかと言うことでしょう。このことは、実は重大な問題であります。結論だけ言うと、詠作主体は女性になりまして、吉野の里にかくまわれている女性であります。しかし、京都からやってくる男は、訪問が途絶えがちでありまして、それは「秋風」に「飽き」を掛けて、夜が更け、「寒く」という道具立てで明らかなわけです。主人公は砧を打つような身分ではありませんから、独り寝の寂しい枕に、吉野の里の砧の音が聞こえてくるのであります。自分で考えたなら、もちろん大手柄と叫ぶところですが、そうではありません。主人公は山にいる、本歌では里にいるのを位置を変えた、というナイスな説があるのであります。出所は内緒。私は、やっぱり里にいるような気がしますけれどもね。

    おほけなく 憂き世の民に おほふかな 我が立つ杣に 墨染めの袖
                                   (『百人一首』第95番・前大僧正慈円)

前の雅経の歌が非常に分かりやすいのに比べて、慈円の歌は、なんとなく最初から疎遠なものを感じます。よく考えてみると、私は「憂き世の民」でありますから、覆われているわけですけれども、そりゃありがたいと思うかというと、何だか迷惑なような気がしてしまうんですね。歌のサイズが大きいというか、特大の僧衣を着たお坊さんでありまして、慈円がウルトラマンのような巨大サイズに感じてしまいまして、いいえけっこうです、迷える衆生はなんとか自分なりにやっております、ほっといて下さいというような気持ちがしてくるのであります。慈円さんは、後鳥羽院をいさめるために『愚管抄』を書いた人でありまして、生まれも藤原摂関家でありますから、身分も高いが実力も充分の立派な人なのであります。

    おほけなく お上もおほふ 苔ごろも(粗忽)
      だれかれとなく 冥加あらせたまへ(粗忽)

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