Dinner is ready !  来ぬ人を 待つ塩鮭の 夕餉かな(粗忽)(5)

画像本日のサルスベリの写真です。次々と咲きますから、全体として巨大な桃色のぼんぼりのようになっておりまして、たとえば路地の角を曲がりますと、我が家に帰って来たという感激があるわけです。浅草の雷門には、巨大な提灯が下がっておりますが、あれを見ると浅草にやってきたという気分が高まるものでありまして、それに似た高揚感を味わっているわけです。

漢字で書けば猿滑、別名百日紅・紫薇。学名、Lagerstroemia indica.

『日本国語大辞典』(第二版)を見ると、「さるすべり」という植物名の文献初出は、『御伽草子』の『草本太平記』の一節のようです。江戸時代の初めには、俳句の素材として意識されたようで、道寿という人の句が『毛吹草』に見えまして、「山王の山の紅葉やさるすべり」であることが分かります。この植物を「ひめしゃら」と読んでいる地域もたくさんありますが、もちろん「ひめしゃら」という別の植物と、樹皮のない木の幹の感じが似ているのであります。百日紅と紫薇は中国での呼び名でありまして、これらで検索すると中国のサイトに行き着きます。

   セミの鳴くのが遅かったと言うことが話題のようであります。たしかに、我が家も8月になってから。

画像ミンミン鳴いていまして、耳鳴りがしているような気がしますが、庭を歩きますと、思わせぶるに飛び回りまして、去年と習性が違っているのであります。放射能の影響があるのかどうか、その辺は専門家だって証明は難しいことでしょうから、素人が口出しする事ではありません。今日の朝日新聞の朝刊を見ましたら、放射能の影響が野菜や果物で相当違うというリポートがありました。案外、ナス・トマト・ピーマン・キュウリというような家庭菜園の主力組は汚染が少なく、まったく駄目なのはキノコ、ジャガイモ・ブルーベリーなどでありました。

なあんだ、それなら今年も作れば良かったのかも。

去年シイタケの原木を一本1200円で購入して、収穫を楽しみにしていたのに、春先の放射能に汚染されているはずですから、食べることを断念しました。これは正解。妙に巨大化し、周縁が崩れていて、とても食べられそうにないものが一個出来たっきり、庭の隅に転がしてあります。写真は、簾の内側に回り込んで、家宅侵入を狙うがごときセミであります。サッシを開けようと、網戸を開けようと、動じることなく鳴き続けまして、なかなか根性のあるタイプであるとお見受けしました。なんとなく、ウルトラマンに出て来るバルタン星人と感じてしまいます。まあ、私の年齢ではやむを得ませんね。巨大化したフジ隊員というのも、トラウマになるほどの印象ですから、どれだけあの特撮物に心を奪われたか分かりません。

    花誘ふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは 我が身なりけり(『百人一首』第96番・入道前太政大臣)

井上宗雄先生が『百人一首を楽しく読む』(笠間書院・平成15年1月)のなかでご指摘の通り、語順が入れ替わると分かりやすいのであります。四句目が一番前だと、散文として自然になると言うことです。つまり、「ふりゆくものは、(何かというと) A ならで、B なりけり」という構文であると考えてもよいでしょう。「我が身」に対比されているのは、「嵐の庭の雪」なんですけれども、その雪は本当の雪ではなくて「嵐に誘われた花の雪」なのでありまして、言い換えてしまうと、散るのは花ではなくて我が身であるよ、と言っているのであります。「ふりゆく」のところは、駄洒落がかましてありまして、「降り行く」という表現は今でも分かりますが、じつは年老いるという意味の「古りゆく」が掛けてあることになっております。この歌の出典は、何かというと『新古今集』ではなくて『新勅撰集』でありまして、雑上巻の1052番なんですが、たぶん「落花」の題で詠んだ題詠であります。

    年を取る、古くなるという意味の「古り行く」がよく分かりませんね。怪しいと思います。

この「古り」というのは、連用形なんですけれども、一般には上二段動詞であると説明されております。「ふり(ず)/ふり(たり)/ふる/ふるる(時)/ふるれ(ど)/ふりよ」と活用するはず何であります。こういう活用は、現代では上一段動詞に合流しましたので、もしこの言葉が現代に残っていれば、「ふりる」という言葉のはずなんですけれども、そんな物は影もかたちもないのであります。これは怪しいのであります。ちょっとやってみると、たとえばこんな具合の動詞のはずなのです。「ふり(ない)/ふり(ます)/ふりる/ふりる(時)/ふりれ(ば)/ふりろ」となるはずなのですが、どうでありましょう? 許せない感じのする言葉でありますね。実は、『万葉集』などでは、連用形の「ふり」しか使われなくて、活用がそろわなかったようなのであります。考えてみたら「古びる」という言葉がありまして、これは元は上二段動詞「古ぶ」でありますが、これが平安時代から使われております。疑惑はありますが、藤原公経さんの歌は、悪くはないのであります。『百人秀歌』だと、この歌がしんがりでありまして、一番最後の最後、101番の歌なのであります。『101匹ワンちゃん』という映画がありましたが、珍しい数字であります。考えてみたら、素数でありまして、101は、それ自身と1以外に約数がないのであります。

   来ぬ人を まつほの浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ(『百人一首』第97番・権中納言定家)

『百人秀歌』だと、この歌が最後の100番の歌でありまして、その後に藤原公経さんの歌が来るのであります。もし、『百人秀歌』と『百人一首』がどちらも藤原定家さん自身の自選秀歌撰だとすると、まったく自分の歌を落とす気持ちは無かったと言うことになりますね。『古今集』において紀貫之は、歌が足りなくなると自分で作って「詠み人知らず」として入れてしまったなんて話を聞いたことがあるんですが、その一方で『後撰集』の撰者である梨壺の五人という方々は、自分たちの歌を採用しませんでした。そう習っただけで検証していないので間違っているかも知れませんが、撰者のあり方としてはどちらもアリでありましょう。この歌も、『新古今集』の歌ではなくて、『新勅撰集』の巻十三・恋歌三・849番に入っているんであります。『新勅撰集』の撰者は藤原定家さん自身ですから、まあ言ってみれば自讃歌でありまして、たしかに一度見たら忘れられない「もみもみ」した歌であります。「もみもみ」がどういう概念化は分からないんですが、「もみもみ」という擬態語はこの歌のためにあるのではないでしょうか。夕餉(ゆうげ)の時間に来ない人を待つのはつらいかも知れませんね。身もだえしつつ、モミモミと恨みの言葉をつぶやきながら待つのでしょうが、歌もそんな感じで作るんでありますね。

     来ぬ人を 待つ塩鮭の 夕餉かな(粗忽)
      焼くや浜辺に 焦がさぬように(粗忽)


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