Dinner is ready !  来ぬ人を 待つ塩鮭の 夕餉かな(粗忽)(6)

画像午後六時を過ぎまして、夕暮れが迫る頃になりまして、クレオメがその可憐な桃色の花を披露いたしました。炎天下であることを物ともせずに、今日もまた新たな花びらを開きまして、植物とは言いながらそのたくましさ、そして容姿のかれんさを惜しげもなく見せてくれているのであります。去年に引き続き、厳しい暑さが続いているのですが、機能不全の政府からは、国民に対する注意も忠告も不十分でありまして、毎日何人もが熱中症で倒れ、あまたの救急患者となる状況を、改善しようという意欲は乏しいのであります。

自分の命は自分の責任でまっとうするべきですが。

日中の屋外での部活動などを抑制することも必要だと思うのですが、万事自由の社会ですから、政府がいちいち国民に制限を課すことはしにくいのでありましょうね。そうそう『花月草子』(松平定信)にありましたね。医者がある人の病気を避けるために薬を処方したんであります。結局何でもなく済むんですが、そうするとその人は医者に苦情を言うわけでありまして、「薬なんか飲まなくてもよかったのに」とごねるんであります。まあ、熱中症の危険がありますから、国民の皆さんは諸活動を控えて下さいって、言うのは簡単ですが、なかなか言いにくいのでありましょう。それとも、盛んにアピールしているんでしょうか? しているのに、こんな事を言っているなら、無知蒙昧な私の発言ですからご容赦下さい。

    クレオメ、またはセイヨウフウチョウソウでありますが、手持ちの辞典類に次々発見であります。でも。

画像いろんな情報を付き合わせますと、ほとんど同じなんですが、やはり違いが生じることもありまして、ただしもともと何か同じものを利用したり、同じ執筆者なんてこともしばしばあります。この場合がそうなのかどうかは分かりませんが。さて、まず『広辞苑』でありますが、手許にあるのは、古い古い第4版、そこには、「ふうちょうそう(風蝶草)」とありまして、明治初期に渡来という情報が目に付きます。それから、漢名すなわち中国語では「白花菜」と呼ぶと指摘しております。それを、インターネットで検索に掛けますと、たしかにクレオメが出て参りまして、食用にもするし漢方薬にもなるようです。

カリフラワーも白花菜のようで、混乱は必至ですね。

『カラー図説日本大歳時記』(講談社)も、「風蝶草」でありますが、「風鳥草」という表記も指摘をしていまして、現在栽培されているのは「西洋風蝶草」であって、これが「風蝶草」として扱われていると説明するんですが、つまり元来日本に同じような物があったということなのでありましょうか。残念ながら、俳句の紹介が欠けておりまして、この花は俳人の心はくすぐらないようでありますね。色が変じるという点が、うまく歌にならないのかもしれません。もう一つ、『日本国語大辞典』(第二版)を覗いてみましたら、これは「せいようふうちょうそう(西洋風鳥草)」という紹介だけでありまして、「風蝶草」という漢字表記を漏らしております。これはどう見ても手落ちでありまして、蝶々に似ているという特徴からして、あまり感心いたしません。ただ、平仮名で「はりふうちょうそう」「のぼりばな」という別名を紹介している点が注目に値します。どちらも、検索してもヒットいたしませんでした。

    来ぬ人を 待つや西洋 風蝶草 薄紅色の 君に似るかも(粗忽)

自分で作って、自分で意味がよく分かりませんが、意味などと言う物は、短詩型文学の場合は、日本語を解する共同体の責任で、適当に適切に決めてゆく物かも知れません。一青窈さんの歌う『ハナミズキ』のなかにも、薄紅色という言葉が出て参りましたが、このことばは美しい日本語であることは間違いありません。先日から、ピンクとか桃色とか言いながら、隔靴掻痒感がありましたが、すっきりいたしました。かゆいところに手が届いた気がいたします。そう言えば、私の好きだった女性で、ピンクの服ばかり着ている女の子がいまして、「ピンクのお姉さん」と勝手にあだ名を付けて、それとなくマークしていた女性がいたことを思い出しました。ああ、あの人は今どこで何をしているのでしょうね。って言うまでもなく、そこいらで茶碗を洗っておりますよ。いやはや。

    来ぬ人を まつほの浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ(『百人一首』第97番・権中納言定家)

この歌の問題点は、「待つ」と「松帆の浦」の掛詞の所を、二重のものにして連続して解釈してよいのか、どうかということです。倒置法がないとして解釈する注釈書が多いのですけれども、そうすると「つつ」というのを反復詠嘆のように解するのではなかったか、と思うのですが、ちょっと待ってくれと言いたいわけです。結論だけ言ってしまうと、この歌は倒置法でありまして、「身もこがれつつ来ぬ人を待つ」で終わると考えると面白いんですね。つまり本当は「松帆の浦の」から歌が始まると言うことではないでしょうか。あるいは、「来ぬ人を待つ松帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身も焦がれつつ来ぬ人を待つ」と最初と最後が同じフレーズになるといいのだと思います。ちくま文庫の『百人一首』(鈴木日出男さん)はそう言う訳になっていまして、同感と言いますか、それが絶対にいいのだと思います。それから、四句目の「や」は、紫式部(第57番歌)の所でも指摘したのですが、間投助詞だけれども、単に語調を整えるというような生ぬるいものではなくて、これは即時「~するやいなや」という即時の用法であるでしょう。「焼くや(藻塩のごとく)身も焦がれ」ということで、「動詞+や+動詞」という構成を見逃してはなるまいと思うのです。時刻は夕暮れで男の通う時刻ですから、「焼く」は単に藻塩のことだけではなく、他の女の所へ行くのではないかと嫉妬の炎を燃やすことでありますから、この歌のなかで「藻塩の」だけが単純な修辞でありまして、これを「藻塩の(ごとく)」と理解するのがいいでしょう。「藻塩が焦がれるように、身もこがれつつ待つ」ということであります。この歌は、繰り返し詠むうちに、螺旋状に繰り返される無限構造でありまして、そのことはもし指摘する人がいないなら大手柄、たぶん鈴木日出男さんは気が付いておられます。

    風そよぐ 楢の小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける(『百人一首』第98番・従二位家隆)

藤原家隆さんというのは、もちろん『新古今集』の撰者の一人でありまして、奥州の玄関口に当たる白河の関というところを訪問しますと、松平定信公が江戸時代にここが昔の白河の関蹟だろうと認定した神社があるんですけれども、その白河神社という神社の境内の中に、この藤原家隆さんがわざわざ京都から贈ってきたという「従二位の杉」というのがあるんであります。本当なら樹齢800年と言うことになりまして、あるいは二代目なのかもしれませんが、ともかくそういうことを示す掲示板が存在するのであります。従二位というのは相当に身分が高く、『新古今集』の撰者たちというのは、たとえば『古今集』の撰者の代表であった紀貫之などが望めない高位高官なのであります。島津忠夫先生が、角川ソフィア文庫で、この人は寂蓮の女婿であるという指摘をしていまして、寂蓮という方は一時俊成さんの養子でしたから、要するに俊成ファミリーの人だったわけであります。もちろん俊成さんのお弟子の中でも傑出した人であることは間違いなく、定家のよき相棒、定家がマイケル・ジョーダンなら、この人はスコティ・ピッペン氏に間違いないわけで、定家よりも遙かに好人物という印象があるのであります。

    風そよぐ 小川のみそぎぞ やせ我慢(粗忽)
     はや夕暮れの 風の寒さや(粗忽)

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