Entrusting to others. ともかくも あなた任せの としの暮れ(一茶)(4)

画像これは何でしょう?って聞くと、実は即答できてしまう方がけっこういるのではないでしょうか。答えはレモングラスという植物の切り株でありまして、先程鎌でえいやあとばかりに切りまして、レモングラスの束のほうは捨てようと思ったんですが、芳香がすごいものですから、捨てないでベランダに置いてあるテーブルの上に置いておきました。なんでもなければ、切り刻んでハーブティーとして飲むところなんですが、やっぱり今年は自重するに越したことはないなあと、思いとどまる次第です。

イネ科の植物でありますから稲刈りの要領。

ここらで刈り取ってやったほうが、越冬するにはいいのではないかと思った次第なんであります。秋に稲刈りを致しますと、切り株が越冬して、春先に芽を出すことがあるのであります。農家ではトラクターで田んぼを掘り返してしまいますから、あわれ切り株から出た芽は土の中に埋まって日の目を見ないのでありますが、レモングラスに関しては春になって芽が出たらラッキーでありますね。香りのもとはシトラールという成分のようですが、レモンやオレンジに含まれているそうですから、なるほど束を持った時の香りは捨てるには忍びないほどのものでありました。

    浪江町の砕石が二本松のマンションに使われて、放射線が検出されたそうであります。

私の印象としてはやれやれという感じですが、ラジオを聞いておりましたら、コメンテーターというかパーソナリティーというんでしょうか、大竹まことさんがその筋の手抜かりについて怒りを露わにしておりまして、確かにそうだなあという感じがいたします。稲わらと牛の問題と同じでありまして、汚染された稲わらを牛が食べて、牛肉が出荷できなくなりましたが、採石場から砕石を運びまして、同じ県内で建物を建てまして、そこに避難した人たちが暮らしていたというような、何だか笑えない話なのであります。「直ちに影響はない」というその筋のコメントに対しても、いい加減にしろよと大竹まことさんは言うのでありまして、「ずっと後ではけっこう重大な影響が出ても、それはその時考えればいいじゃん」と言われているようでありまして、分別ある大人ならそんな言い方でごまかすのは許せないと思うわけであります。

    『おらが春』(一茶)を読んでおりますが、作者は5か月を俳句だけでつないで行きます。

九月十六日の正風院菊会のあとに、亡くなった愛娘に関する句が一句出て来るのでありますが、唐突の感は否めません。やはり詞書きが何処まで掛かるのかという問題があるんですが、さとちゃんに関わるのは一句だけでありまして、その後の四句は晩秋から初冬にかけての野鳥や昆虫に関する句でありまして、一茶らしいと言えば言えるのでありますが、何かそれらの句についての詞書きなり一茶の感想なりがあったら面白いだろうなと思うばかりで、もう一つ楽しめないのであります。

        さと女笑顔して夢に見えけるままに
     頬ぺたに あてなどしたる 真瓜哉
     どう追れ ても人里を 渡り鳥
     山雀の 輪抜けしながら わたりけり   ※「山雀」(やまがら)」
     鵙の声 かんにん袋 きれたりな     ※「鵙」(もず)
     蟷螂や 五分の魂 是見よと       ※「蟷螂」(とうろう)はカマキリ。

画像『八番日記』という小林一茶の日記では、ここでの最初の句に異同がありまして、「頬ぺたに あてなどするや 赤い柿」とか「頬ぺたに あてなどす也 赤い柿」とあるのであります。これをどう考えるかと言うことなんですが、文政元年の5月4日生まれのさとちゃんは、おそらくその年の柿を手にとって頬ずりするようなことはなかったのではないかという気がします。そして、お誕生日を迎えた直後の文政二年6月21日に亡くなっていますから、その年の柿が熟した頃にはもうこの世にはいなかったのであります。これを見る限り、『八番日記』に書かれた句だからといって事実をありのままに詠んだとは限らないことが分かるのであります。

いつかの柿。柔らかくして食べると美味。

これが「真瓜(まくわ)」だとどうなのか。これは「真桑瓜」のことでありましょうから、文政二年の六月がグレゴリオ暦で7月22日からだったことを考えれば、さとちゃんが頬ずりしていても不思議はないのですが、改変は改変でありまして、だとすればフィクションなのであります。前回も書きましたが、亡くなった人を思い浮かべて起こりえた出来事を想像することはけっして不自然ではないのであります。だとすれば、『八番日記』の通りに一茶は文政二年の晩秋から初冬にかけて赤い柿を手にしまして、死んだ子ならこうしていただろうと想像したのであります。それなのに、ふと現実のさとちゃんが頬を寄せることのできそうな真桑瓜に差し替えてしまったのであります。想像した記憶というものもまた貴重なものでありまして、そこには何らかの真実を含んでいることでしょう。勇気を持って一茶は「赤い柿」と置くべきでありまして、そして柿をさとちゃんに見立てて頬ずりした父親の自分を告白すべきではなかったかと思うのであります。もちろん、余計な差し出口とは承知しておりますが。

      柿一つを見ても、つい愛娘を思い、きっと涙した小林一茶がいたのだと思うのですが、いかが?

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック