Is it named jellyfish ?  憂きことを 海月に語る 海鼠かな(9)

画像強く降った雨のせいで泥がはねまして、スノーフレークの新芽が汚れてしまいました。写真は昨日の夕方の夕日を浴びた様子でありますが、この後じょうろで水をかけまして泥を落として差し上げたんですが、スノーフレークが喜んだかどうか、そのあたりは超能力がないので分かりません。樹木の声に耳を傾け、草花のささやきを聞き取ってみたいとは思いますが、そう言うことは今まで経験がありません。子供が見ていたディズニー映画の『ポカホンタス』には、巨大な樹木がいろいろアドバイスするシーンがありまして、夢があって面白かったなあと思い出します。

スノーフレークの開花は一ヶ月後?

本日は二月十五日でありますが、正午の段階で月齢が14・2とありまして、本日は満月にはまだならないようであります。月齢15・0になるのは明日の午前中と言うことになりますが、私がちょっとだけ習ったところでは、月齢15・0の瞬間を含む日を十五日に立てるのではなかったかと思うんですが、どうして一日ずれているのか、にわかには分からないのであります。国立天文台のサイトを見ますと、本日の我が家周辺の日の出の時刻は、6:03ということでありまして、日の入りの時刻が17:42とありますので、何となく生活に支障のないほどよい日の出・日の入りであります。じゃあ、お月様のほうはどんな具合なのかというと、月の出の時刻が夕方でありまして、16:35と発表されております。月の入りの時刻が明け方の4:49ですから、月が沈んで日が昇るまでの間に漆黒の闇の時間が少しはあると言うことなのであります。月が最も南にあるのが深夜の23:04でありまして、電気を消して月明かりを楽しみながら、琵琶や篳篥を奏でまして、お酒でも飲んだなら楽しい夜が過ごせそうでありますね。ただし、ここには琵琶もなければ篳篥もありませんで、古い電子ピアノ、壊れているよと言われて押しつけられたベース、ハーモニカくらいしか無いのが残念です。

  「うきことを くらげにかたる なまこかな」(召波)という句を、だらだらと考えております。

画像昨日、形容詞の「憂し」のことをク活用なんてことを言いまして、さび付いた頭のさびが少しはがれ落ちたんでしょうか、何だかもやもやした妙なことを思い出しました。そう思って明治書院刊『日本文法大辞典』(松村明編)をちょっとめくって見て、もやもやの原因が分かりました。形容詞に二種類あるというのは、文法のイロハのイでありまして、どうして二種類あるのかというのが日本語の謎の一つなのであります。この謎をほぼ解き明かす鍵を見付けて、すぐに亡くなった人がいるんであります。国語学者の大野晋さんの教え子の方ですが、不治の病で亡くなってしまったんでありますね。この人の業績を横取りしようとした悪い学者がいたことを、大野晋さんは著書の中で憤っていたりしますから、ご存じの方もいることでありましょう。

形容詞には、ク活用とシク活用の二種類がありまして、似てるんですが活用が違っております。

たとえば、「高し」と「楽し」は古典では見た目が同じでありますけれども、現代では「高い」と「楽しい」と違っておりまして、要するに活用が違うんであります。「高し」のほうはク活用、「楽し」のほうはシク活用と呼ばれるんでありますが、それは「高く・なる」「楽しく・なる」というふうに下に動詞を付けて連用形の活用形を出してみると分かるわけであります。高校でちゃんと勉強した人は、普通は知っていることであります。しかし、この二つの活用の違いが何を意味しているのか、実はさっぱり分からないのであります。同じようなものを探すと日常にはたくさんありまして、映画を意味する「シネマ」と「ムービー」の違いなんかと同じなんですね。「シネマ」は語呂が悪いので「キネマ」とわざと言っていたらしいのでありますが、世の中の言葉というものは複雑なものであります。

   ク活用は客観的な状態を、シク活用は主観的な心情を表すものだったのではないか、ということらしい。

もちろん、現代語のク活用・シク活用の形容詞を眺めたらそんな単純なことは言えないわけですから、太古の昔は違っていたはずだ、という卓見だったんであります。平安時代くらいだって、二種類の活用について截然と分かつことは難しいから長らく謎だったんですね。それを、やっぱり本来違うものだと指摘した人がいたと言うことなのであります。『日本文法大辞典』を眺めていたら文法学者の時枝誠記さんの考えが引用されていて、へえ、そうかと思う点がありました。執筆者は山口佳紀さんのようですが、時枝文法の勘どころを押さえてあるんですね。

    「川が深い」……「深い」は客観的な属性。「川」は主語。
    「母が恋しい」……「恋しい」は主観的な情意。「母」は対象語(つまり主語ではない)。

こんなの見たらしびれますよね。「深い川」と「恋しい母」とあったら、形容詞の活用の違いなんか気が付かないわけであります。「高い山・山が高い」「楽しい遊び・遊びが楽しい」というようなことですから、言われなければ、何の疑問もなく同じ品詞の言葉として扱うわけであります。「山が高い」の「山」は主語でありますけれども、「遊びが楽しい」という時の「遊び」は主語ではないわけで、楽しいのは私なんですね。そうか、「遊び」は対象であったのかと気が付くわけです。こりゃすごい。ただし、鋭い研究者の鋭い指摘を通して見るから分かった気になるわけで、いつでもどこでも誰にでも通用するわけではないので、これを人にもっともらしく語るのは避けて置いた方が無難なんですね。変なことを言う人だって思われるのが関の山なんであります。

    「私は母が恋しい」「私は遊びが楽しい」ってことでありますよね。本当の主語が隠れているのかも。

ついでに、『日本文法大辞典』を見ていたら、ク活用の形容詞の中で「憂し」と「憎し」の二語は主観的な情意を表していて問題だなんて書いてありますから、すぐれた卓見を突き崩す蟻の穴が、この二つの単語のようでありまして、ク活用とシク活用の本質的な違いを認めない学者さんもいると言うことなんですね。そうかなあ。二つの単語だけなら、それの意味が、我々の思っているのと違うと言えばいいのにねえ。みんな、意地悪だし、仮説を出して従来の考え方を修正してみようという意欲に欠けているのではないでしょうか。もし「憂し」が客観的な属性を述べるものであるなら、「憂き世」などという言葉の意味内容だって、考え直せばいいのであります。考え直す必要があるなら、今回の召波の句は大問題ではないかと思います。「憂きこと」が主観的な情意であるなら、それはなまこ個人の問題ですが、「憂きこと」が客観的な属性なら、それはなまこ一族の存亡の問題と言うことなんでありますよ。言ってて全身がむずがゆいのであります。花粉症のアレルギーでしょうかね。

   「憂し」や「憎し」も本来は客観的な属性を表す形容詞だったんでありましょう。そのはずです。

ここからは、もうどうでもいい独り言でありますが、まず「憂」とか「憎」という漢字が邪魔になってくるんでありますね。それを使う限りは情意の言葉であると認識してしまいます。「憂き世・世が憂し」とか「憎き敵・敵が憎し」とやってみると、確かにク活用なのに主観的な情意でありますが、それは他の形容詞も現代では大方そうでありまして、平安時代くらいだってク活用とシク活用の違いはあまりないのであります。でもこれを、ク活用だから客観的な属性を表す表現なんだぞと思い込むことにすると、なかなか面白いですよね。「うき世・世がうし」とか「にくき敵・敵がにくし」というのは、もはや主観ではなくて誰しもが認めざるを得ない客観性を帯びた属性を表現していたということなんであります。

    「うき世・世がうし」……死別・離婚・処罰・戦乱などによって、破滅した人生?
    「にくき敵・敵がにくし」……親の仇・主君の仇で、許し難い敵?

気になりましたのは、「海鼠(なまこ)」の身に江戸時代に何が起きたかと言うことなのであります。実は俵物と称して長崎で中国に売り渡されていた乾物の類は、日本が中国から輸入していたものの代金代わりだったのであります。金銀銅の代わりですからいくらあっても良かったんですね。そうなると、おそらく漁師は乱獲するようになりまして、やがて品薄になります。品薄になると、幕府による買い取り価格は高騰いたしますが、取引相手である中国……当時は清のはずですが……はおいそれと、フカヒレや干しあわびや煎り海鼠の値段のつり上げには応じないという問題があったようであります。問屋さんや幕府はものすごく困ってしまったんであります。需要と供給の関係のアンバランスは、経済を破綻させるんですね。レアメタルとかレアアースというのがありますが、レア干物、レア俵物だったはずなんです。三角貿易に出来ればよかったんでしょうね。……自分で書いていて、論旨が通っているのかどうか、さっぱり分かりませんが、こんな変なブログ読む人もいないことでしょう。勉強の益にはもとより立ちません。ですから、内容の不備・杜撰さ・いい加減さ・愚かさについてはご容赦下さい。

   おちおち海底に居る事も出来ないなまこからすると、価値のないくらげはうらやましいのであります。

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