It cause baldness. 若い身そらで禿頭。(5)

画像妙なタイトルを付けていてごめんなさいであります。だいたいにおいて、住んでいる場所を考えたら、羊頭狗肉でありまして、羊頭を掲げて狗肉を売っているわけなのであります。たぶん、高原のペンション経営でもしている人のブログかと訪問した人がいたら、そうじゃないんでふざけるなと叱られますから、これまたごめんなさいであります。また、植物の知識が満載のブログかと辿り着いた人がいたら、それは見かけだけで、無知蒙昧、何にも知らない初心者でありまして、後半はわけの分からない蘊蓄でありますから、それもこれも、あれもどれも、ほんとにほんとにごめんなさいであります。

愛らしいドウダンツツジの花。剪定の跡が痛々しい。

街路樹で見かけるドウダンツツジは、手入れが適切なのか、きれいに咲いているものなのであります。その場合、てっぺんを水平にカットしているのが目立ちまして、きれいにガードレールくらいの高さに揃えてあるわけです。それでもって、花がきれいに揃いますから、うらやましいのなんの。球形にカットしてある我が家の庭は、どうも手入れの仕方が違っているようなのであります。せっかくの庭師の仕事に口出しするほど庭いじりのキャリアがありませんから、黙ってみているだけ、お任せなんですけれども、さて、このまま見守るともう少し咲く花が増えるものでしょうか。葉っぱが芽を出さないので、心配なのであります。

   本格的に春らしい陽気になりましたが、もう桜は花吹雪となり、週末は見頃を過ぎました。

画像先週末の五分咲きくらいで花見をした人が大正解でありまして、こうなるとお重をつつくも何も、花びらと埃が舞いまして、大変ですね。運動会なんかもレジャーシートやらむしろを敷いて見物するんですが、地べたに一枚敷くだけで座り込むのが、なんとなく嫌なんですがいかがなもんなんでしょう。子供時代の運動会は九月のことでしたが、寒冷地のことですから、秋風が心地よく、葡萄やなしの香りがうれしくて、のりまき・おいなりさんに込められた母の愛情も格別でしたから、うっとりするような記憶ばかりであります。

写真は鈴なりのオオキバナカタバミ。春爛漫。

かけっこは入賞のおぼつかない鈍足でしたから、ただ走るだけでしたが、障害物競走やらチャンスレースになると、これは一等は無かったものの、二等や三等は取りましたから、懐かしくて思い出に浸れます。ところが、90年代の我が子の運動会は暴風雨、にわか雨、砂まみれ泥まみれの記憶でありまして、もう地面に座るのは勘弁してという有様でありました。なぜか、五月の田植え時でありまして、田舎の市街地の学校でしたが、ちょっと歩けば田んぼでありまして、困っていた人がいたろうになあ、といつも思いました。

   「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」(『徒然草』第137段)

「盛り」はたぶん名詞であります。「に」は時をあらわす格助詞の用法でしょう。「のみ」は限定を表す副助詞と呼ぶもので、いまなら「だけ」「ばかり」と訳すのかと思います。「ものかは」は、現代語なら「ものか」でいいわけで、反語の終助詞と説明すれば事足ります。兼好法師がここで言いたいのは、花は満開を見るものだし月は満月を見る画像ものだが、それだけを見るものなのか?という問いかけでありまして、いや、それ以外の花も月もいいではないかと言うことです。私もそう思います。不勉強で本居宣長の『玉勝間』なんかちゃんと読んだことが無いんですが、宣長はこの本の巻四のなかで、兼好法師のことを思いっきりけなしているんであります。今から見ると、宣長という人は満開・満月が大好きで、要するに俗物根性の塊みたいな立場で、刺激的に兼好法師を排撃しているのであります。「つくりみやび」とまで断罪するんですが、やりすぎですね。

週明けは 青葉とならむ 花の枝(粗忽)

「盛りに」が、形容動詞の「盛りなり」の連用形で、連用中止法という並列のための活用形になっているというのが、安良岡康作さんなどの見解であります。後続の文にも連用中止法が使われているんですが、だからといってこの「盛りに」が連用形であるとはとても思えないのであります。その理由を考えたら、これは「盛る」という動詞由来の言葉で、動詞の連用形が名詞化したものなのであります。同じようなものには「流行る」からできた「はやり」、「すたる」からできた「すたり」があったり、「恐る」からできた「恐れ」、「喜ぶ」からできた「喜び」なんかがありまして、形容動詞として使えそうにないものが結構あるんであります。「盛り」という名詞の安定感、使用歴といったものを考えると、それを無視できないのでありますが、無視してしまうと連用中止法という文法に絡め取られてしまいます。

    立派な注釈書を疑うという発想がなかったのでありますが、実は突っ込みどころが満載かも。

「野球の盛り」というのはおかしな日本語でありますが、「野球の盛んな土地」というのは問題がありません。「盛んな」は形容動詞「盛りなり」から派生した連体詞ですから、「盛んなる土地」という言い方は今でも出来ます。これに対して「花の盛り」は奥ゆかしい日本語ですが、「花の盛んな時期」というのは問題があるでしょう。「田植えの盛んな時期」「稲刈りの盛んな時期」は大丈夫だと思うんですが「田植えの盛り」「稲刈りの盛り」は変なんであります。言葉というものは、ある固定された規則に従って運用されているのではなく、連綿とした歴史の流れの中で弾力的に運用されてきているわけで、学校で教える単純化された文法規則で成り立っているだけではないのでしょうね。文法の奥に、秘められた狙いや、それぞれの言葉の成り立ちによる制限が隠れていると言うことでしょう。

    「女は盛りに、男はスネに疵なきをのみ見るものかは」(粗忽)いろいろ遊べます。

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