The wall collapsed. 長い梅雨に築地が崩れて。(3)

画像何だかすごい雨の音で目が覚めました。通勤時間帯に大雨という予報がありまして、まったくその通りなのであります。5時から9時までの5時間の間に40㎜くらいの雨量が記録されたようでありまして、自慢のアジサイが地面の方に押しつぶされたようなことになっておりまして、どれだけ降ったのかと思うわけであります。ここ30年の本日の平均雨量は6・00㎜をちょっと切るくらいなのであります。梅雨というのは曇っている時間も多いわけで、降ってもザーザーとは降らないわけで、たいした雨量ではないと言うことであります。

地面に近い所に位置が下がったガクアジサイ。

見ておりますと、桃色に近いものと、藍色に近いものがありまして、色彩の違いがどこから出て来るのか、不思議であります。土壌の酸性・アルカリ性によって色が違うなんてことを昔はよく言っていましたが、どうもそうではないと言うことなのであります。昔教科書で習ったようなことは、特に理科ではもう言わなくなったことが多くて、とまどうことがあります。つまり、教科書というのがそんなに信用できないということは、肝に銘じておかないといけない事でしょう。書いた人が悪いとか、検定している国が悪いのだとか、そう言うことではなくて、将来役にたつことや客観的に正しいことというのが、実は実体のないものでありまして、架空の真実のなかで私たちは生きていると言うことなのかも知れません。教科書の中のフィクションの部分の大きさというのは、案外大きくて、きっと誰が作っても同じことなのでありましょう。きっと、ちゃんとした大人が、社会や理科の教科書を読んだり、ごく普通の常識人が国語の教科書を読んだら、仰天するような所があると思うのですがいかがでしょうか。ある教科書には、久し振りに故郷を訪ねた青年が、昔戦争の時代に敵機が襲来したときに女性を突き飛ばして死なせてしまったというトラウマを思い出すというような、はっきり言って勘弁して欲しい話もありまして、編者の悪のりにびっくりするものがあるのであります。

   国語がいつから情緒だけを追究する科目になったんでありましょう? 筆者の心情はいかに?

気になりますのは、このブログへのアクセスの中に、小林一茶の「名月を取ってくれろと泣く子哉」を検索して辿り着くのが多いようでありまして、どこかの教科書の俳句の項目にこの俳句があって、授業の中で鑑賞を要求されているんでありましょう。俳句というのは短詩型文学でありますから、それだけを見せて「何て言ってるの?」と詰め寄られたら、画像生徒は困るんでしょうね。想像してみると、その一句だけで一つの完成された世界のように思わせて、優秀な先生なら緻密に解説したりするでしょうから、生徒は困ると言うことです。私のブログは、一首の和歌、一句の俳句、一遍の漢詩、古典の一節、そういうものをダラダラと何日にも渡って考えるわけで、すぐに答えを知りたい検索者には向かないことでしょう。一つ前の記事、一つ後の記事を見た形跡がなかったりしますから、相当焦っているのかもしれません。

開花直前のキキョウのつぼみ。

五角形をしておりまして、さらに、その間に筋がありますから、10角形ということかもしれません。だとすると五弁の花が咲くのでありまして、咲く前に紙風船のようになりますから、外国語ではバルーンフラワーというのではなかったでしょうか。10角形なら36度、五角形なら72度でありまして、寄り集まると360度になるわけであります。花が開くとお星様の形でありまして、誰が見てもキキョウであります。幼稚園の頃にお星様を作りたいということで、幼稚園の先生を悩ませた事がありました。普通の定規と鉛筆では五角形を作るのは至難の技でありまして、先生がうんうんうめいているのを覚えているのであります。幼稚園と言っても、実は教会の幼児教室でありまして、それでも随分手厚い幼児教育を受けていたのであります。入園してすぐに親友ができまして、思い返してみるとあの友人が人生最良の友人だったかも知れません。幼稚園の先生が撮影してくれたお昼寝前の整列写真では、二人で笑顔で写っておりました。熊の出るような山の中でしたが、英語教育があり、美味しいデザートがあり、優しい先生に囲まれていたのであります。五角形というキーワードで湧き上がる思い出があると言うことです。

  『源氏物語』を現代語訳で読んでおりますが、「須磨」の巻はあまり上手ではありません。

須磨というのは、現在は神戸市に入っておりまして、須磨区ということになるようです。阪神淡路大震災の時には震源地の近くでありまして、それでも他の地域よりは壊滅を免れたのかも知れません。現在は、須磨区の隣に垂水区という画像のがありまして、これは播磨の国の明石郡だったところが近代において神戸市に編入されたんだそうです。須磨が属していたのは、摂津の国でありまして、普通は津の国(つのくに)であります。須磨区の中にも、元は播磨の国だったところがあるそうで、近代の都市化の波の中で、阪神地域の拡大が古代の境界を壊した例と言えるかも知れません。しかし、なにゆえ光源氏は摂津の国の須磨を選んだのか、ということが問題なのでしょう。

ツユクサの茂みであります。

調べてから書けばいいのですが、それはそれ、どうせ当てずっぽうを言うのですから、思い付いたことを書けばいいのでありましょう。在原業平は東下りというのを敢行しまして、関東まで流れてきたことがありました。貴種流離の典型ですけれども、これは彼一人の話ではないのでありまして、都が嫌になると地方へ下るものが結構いたのだと思います。だから、ある時から、身分の高いものは勝手に地方へ下れないように制限が掛けてあったはずなんですね。当時の首都圏は畿内と言って、山城・大和・河内・和泉・摂津の五カ国でありまして、この範囲で京都から最も遠いのは大和の吉野と摂津の国の須磨だったのではないでしょうか。山の中の吉野は行き止まりでありますから、修行の地であり、臨終を迎える土地かも知れません。一方、須磨の場合は瀬戸内海を使って西へ行けますから、いつでも流浪の旅に出られるんですが、規則を曲げないで留まるぎりぎりの場所だったと言うことです。

     田村の御時に、事に当たりて、津の国の須磨といふ所に籠もり侍りけるに、
     宮の内に侍りける人に、遣はしける                 在原行平朝臣
   わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩垂れつつ わぶと答へよ(『古今集』雑歌下・962番)

田村の御時というのは、「文徳天皇の時代」と言うことらしいのでありますが、第55代の天皇で嘉祥3年(850)~天安2年(858)がその治世でありますが、どうも落ち着かなかったようでありまして、急死にまつわって暗殺説があったりするようです。「田村」というのは陵墓のある地名ですけれども、所在が本当は不明だなんて事までウィキペディアには書いてあります。文徳天皇が後継者にしようとした惟喬親王というのは、在原業平なんかと親しかった人でありますから、この天皇が急死しなければ、在原業平の人生もかなり違っていたというような天皇であります。まあともかく、同じ「ギョウヘイ」でも兄の行平さんは、須磨の辺りで不遇をかこつことがあったと言うことでありまして、『源氏物語』の舞台として有名な須磨というのは、平安時代の人にとってはお約束の場所だったんでありましょうね。そのお約束が、今から見るとさっぱり分からないわけで、何かもう一つ二つ秘密が隠れていそうです。もちろん、菅原道真さんの話も含めて、現代からはなかなか分からないことがあると言うことであります。

  

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