TRDMC 涙こぼるるのみ。(7)

あ~あ、昨日に続いて本日も寒い寒い一日であります。「花冷え」なんて言葉がありますけれども、果たしてこれがそうなのかどうか。桜は咲いたが浮かれようもないという気温でありまして、昔からそんなものだったのかも知れません。仲のよか画像った二人が深い仲になりまして、いわゆる恋人なんでありますけれども、かえってよそよそしくなってしまったりするのと同じでありましょう。あるいは結婚してみたけれども、そうなると食事をするのも、あれをするのもこれをするのも日常でありまして、非日常であった交際期間に比べて、ぐっと盛り上がるものが欠けてしまうというのと似ているかも知れません。咲いた桜は華やかでありますが、華やごうとする気分に気温が追い付かないのであります。

ご近所の桜。

我が家は路地に面していまして、ここは用のある人しか通らないというような、普通の通行人のいない路地であります。故郷にほど近い城下町の枡形道路(ひょっとすると鉤型道路?)を思わせる、妙な入り組んだ路地になっておりまして、通り抜けにはまったく適さない道なのであります。この一角を分譲しようとした方は、その種の心得のある方でありまして、確かにこの一角には謎の住宅も一軒潜んでいるのであります。ともかくこの路地を抜けますと、もうちょっと広い道路に出るわけでありますが、南側の出口で左右を見ますと、右は西の方角で遠く高層ビルのちょうど隙間の所を見ることになるのであります。どうやら、その隙間から見えるのは富士山でありまして、富士山の頂上だけがちらりと見えるという趣向であります。でもって、左を見ますとこちらは東の方角でありますが、たぶん筑波山方面のはずですが、筑波山は見えません。そのかわり、東の方角の突き当たりに、写真のような桜が見えまして、これがちょうど壁のように見えるという寸法なのであります。桜の木の立っている地面というのは、実は広大な沼地の一部でありまして、おそらく太古は海、つまり東京湾の奥深くの入り江だった所であります。あるいは、縄文時代くらいには例の荒川の流路だったはずでありまして、うっかりすると利根川だったかも知れない所なのであります。この先には今でも田んぼがありまして、春には田植え、秋には稲刈りを見ることが出来ます。路地を出た所は崖の上でありまして、よって桜は根本が見えず爛漫と咲き誇る桜の花の壁だけが見えているのであります。

   ひさかたの日射しかすかな春の日に見ぬ間に咲ける花の壁かも(粗忽)

ちょっと掛詞も仕込んでみましたけれども、それがどのあたりかは気になさらなくて結構でございます。桜を見て散るのを思い浮かべるかと思いましたが、別にそんなことはないのでありまして、ああ満開だなあと思うだけであります。それを眺めて涙なんかこぼすのかと考えて見ると、おそらく涙をこぼすことはありえないのでありまして、いつか紹介した萩原朔太郎の「花」という詩は、『古今集』から綿々と続く和歌の伝統を、五七五七七ではなく自由な形式で表現したような所があるわけであります。そうなると、詠作主体と対象である桜だけではなくて、桜の下に群れ集う一般大衆の姿が、知的で近代的な感性の持ち主である朔太郎と対比されるという仕掛けでありまして、同じ自然を見ながら他の人とは違う内面を持つ詩人の姿が浮き彫りになるという事なのでありましょう。和歌の世界が、歌会に参加する歌人を同じ感性に縛り付けるものだとしたら、明治時代以後の近代詩は詩を作る詩人を同時代の大衆から切り離して、個を個として認めさせようと頑張るのかも知れないのであります。

画像
   朔太郎の「桜」   粗忽

桜の下に朔太郎一人立ち尽くしたる
何を思って黙して居るならむ
我等も木の下につどひ居てみたれども
我等が心は熱くたぎりて
花びらの散りて落つるにも飲み食ひ歌ふばかり。
いとほしや
いま春の日のまひるどき
あながちに悲しき物を見つめたる朔太郎ならぬに。




   春の日に桜の下に朔太郎汝は泣くや散り敷くを見て(粗忽)
   我ならず涙こぼれて朔太郎いとほしくもや桜散るらん(粗忽)

萩原朔太郎の詩を深く理解しようとしてのパロディでありますから、誤解なきようにお願いしたいと思うのであります。すでに完成してしまった詩をそのまま眺めているのもいいのでありますが、いろいろと揺さぶりをかけてみると、思いがけないものが見えて来たりいたしまして、近代詩の一面が分かったような気がいたします。これからすると、島崎藤村の詩というのは、現代から見たら和歌と寸分違いのないような文語による詩でありまして、これに対して萩原朔太郎を古画像めかしいものとは見ないはずであります。しかし、こうやってひねりを加えたり、和歌の形に改めたりいたしますと、その本来の姿が顔を見せるような気がします。本来の姿を見つけてどうするというわけではありませんが、昔学校でこの詩人の詩を見せられて、どうだどうだと得意げだった国語の先生のことを思い出しまして、私より上の世代には非常に新しい感性だったのかも知れません。

カエデの新芽が出て来ました。

近代の詩というものが、実は和歌や漢詩の教養を背景に持ちまして、その上で近代的自我と言いますか、個性の主張をしていたとすると、そういう目でいろいろ見てみてもいいのかと思うわけであります。西欧の場合は市民革命を経験しまして、強烈に個人というものをアピールするわけですが、日本の場合はそういうプロセスを経ていないと言うことがしばしば指摘されまして、昔何かの本を見ていたら、欧米から見たら日本はいまだに中世なのだという話がありまして、産業革命も市民革命もろくに経験しないまま、西欧の近代国家と対峙するために近代国家を無理やり作り上げてしまったとか言うのでありました。アメリカにハンチントン教授という方がいまして、この方が東西冷戦終結後の世界は文化衝突の時代に突入すると予言したんですが、その場合もっとも人口の少ない文化圏が日本単独の文化圏でありました。日本の首相が沖縄について発言しても、世界の人は少しも理解しないわけでありまして、「カワイイ文化」の日本の中核中の中核であるAKB48の女の子が丸坊主にすると世界は何事かと色めき立つのであります。これもまた理解しがたいことなのでしょう。

   OTZは「ごめんなさい」なのかとおもったら、orzで失望・落胆に使うそうです。

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