She was bowing.恥かしさうなうれしさうな顔。(9)

何だかひどく寒くて、いよいよ風邪でも引いたか、脳卒中か、血栓がたまったか、と心配するわけですが、何のことはない、昨夜の12時から今朝の8時くらいまで0度前後でありまして、日が射してようやく2度か3度になった程度で画像あります。移し替えた水仙には昨日の夜に木の葉をかぶせておきましたので、霜に当たるようなことはなかったみたいでありまして、先ほど木の葉を取り除けて、芽の様子を覗いてまいりました。土ごと移動しましたから、よもや枯れたりはしないと思うのでありますけれども、まもなく厳冬期でありますから、植物の移し替えもほどほどにしないと、素人考えで庭の植物を枯らすことにもなることでありましょう。

水仙のための木の葉のお布団であります。

さてさて、『智恵子抄』を角川文庫の『校本智恵子抄』(平成11年版)で読み進めてまいりましたけれども、何だかもう一つ熱が入らないのでありました。どうやら高村光太郎さんや智恵子さんと言うのは、明治時代の風に乗って飛翔した人たちでありましたが、関東大震災のあとは智恵子さんの実家の没落や、時代遅れの彫刻というものが災いして、何だか非常に窮乏してしまいまして、その結果智恵子さんは病気がちになり、最後は狂気を発したのであります。親の援助で建てた東京市内のアトリエで二人暮らしの貧乏でありまして、ある意味明治時代の生んだ暢気なお坊ちゃまとお嬢様の暮らしでもあります。最愛の妻が、我が芸術の最高の理解者でありましたから、その狂気は高村光太郎にとっては非常につらいものであったことが分かるのです。詩のほうは、出会いから結婚までが難解で意味不明でありますが、貧乏した時の詩はユーモラスでもあります。狂気を発してからの詩は、回想してある時点の風景や心象を切り取ったものだったのであります。詩集の最後は「智恵子の切抜絵」というもので、闘病生活の中で智恵子さんが千代紙などを使って作った切り絵のことにしっかり触れております。こちらは、その数点を二本松の記念館で見たことがありまして、狂ったのに見事な切り絵とはどういうことかと、見ながら思ったものであります。光太郎が勧めまして、智恵子さんは最後まで手を使って作品を作り続けたのであります。褒めると恥ずかしそうに笑ったそうですが、ただお辞儀もしたそうで、どうやら光太郎を夫とは認識できなくなっていたのでありましょう。そういう微細な点を光太郎さんは見逃さないのであります。

   『智恵子抄』刊行は昭和16年(1941)八月、四か月後に太平洋戦争勃発であります。

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