Half a Life.光太郎智恵子の半生を語る。(8)

青森で100センチの雪が降ったというような報道がありまして、もう冬本番であります。日本列島の半分くらいは豪雪地帯でありまして、わっさわっさと雪が降りますけれども、降らないところはまったく降らないわけでありまして、この大きな落差は大問題であります。めったに雪なんか見ないという地域もあるわけで、何もそれは沖縄に限らないのであります。私の生まれ故郷は雪の降る寒冷地でありますが、せいぜい80センチくらいまでの積雪しか見画像たことがありません。10年以上前に豪雪の年がありまして、近所の空き地に砂利の小山があったんですが、そこにそりを持ち込みまして、幼児をだっこしてそり滑りを試しましたが、さて当時の幼児たちはそんなことはもう忘れきったことでありましょう。そりで滑れる年もあれば、雪が微塵も降らなかった年もありまして、いろんな年があるものであります。

今年もマンリョウが実を付けました。

さて、『智恵子抄』を読み進めてきましたが、巻末に控えているのは「智恵子の半生」という長文の散文であります。智恵子さんの没後2年ほど経ってから書いたという文章でありまして、これを書き上げて、『智恵子抄』はまとまったと見えまして、光太郎自身が巻末に据えることにしたのでありましょうか。それとも、龍星閣主人の求めに応じて書いたのでありましょうか。以前に、龍星閣版の『智恵子抄』を近所の図書館から借り出して来まして、その巻末に散文が長々と付いているので驚いたのでありまして、てっきり純粋な詩集かと思いましたら、詩を補うというよりは、詩を凌駕するような文章の迫力に驚いたのであります。随分と正直に、そして熱意を込めて智恵子さんのことを書こうとしておりまして、世間の葬儀に際してよくある取り繕った美文調の追悼文とはずいぶん毛色の違う文章であることは間違いありません。この文章の冒頭で、光太郎さんはまず智恵子さんの死因と、彼女の入院先と入院理由をはっきりと述べまして、何一つ隠し立てしないという点で、読む者の心に強烈な印象を与えるのであります。

   智恵子さんの半生を語る前に、自分と妻との関係をはっきり説明する文章であります。

よくわからないところがあるのは、留学して日本に帰国してから、光太郎さんはどうも乱れた暮らしをしていたようでありまして、それがどの程度のものなのかよくわからないのでありますが、その暮らしを智恵子さんに救われたというようなことをさらりとアピールいたします。自分は彼女に清浄化されたというような言い方であります。そして、二人の共同生活の最も肝心なところが語られてゆくのであります。高村光太郎さんは彫刻家でありまして、父は今で言う東京芸術大学の教授である高村光雲でありますが、それを俗っぽいものとして拒否した光太郎さんは、画像ひたすら芸術のために創作に励んだわけです。その彫刻の創作活動を支えていたのは、彼の作品を日々愛して褒めてくれた智恵子さんの存在だったと述べるのであります。ここはひょっとすると芸術の最も肝心なことかもしれないのであります。たった一人の鑑賞者が居れば、芸術は成立するということを光太郎さんは力強く説明して倦まないのであります。

ツツジの根元で赤い実を付けるマンリョウ。

人から紹介された智恵子さんが、光太郎さんのアトリエを訪ねまして、お土産はグロキシニアという植物だったはずであります。それから熱烈な恋愛に発展しまして、どちらかと言えば智恵子さんが追いかけたような印象であります。本気で愛されて、光太郎さんは愛に目覚めたんでありましょう。それから同棲し、結婚披露宴を開き、貧乏になり、関東大震災を体験し、さらに貧乏になって、ついに妻の狂気を見ることになったわけですが、『智恵子抄』の発行は昭和16年8月のことでありまして、その1941年に太平洋戦争が生じまして、果たしてこの詩集はどれくらい当時読者を獲得したのか、実はよくわからないのであります。ひょっとすると戦後の書物が底をついたころに売れに売れたのではないかという気もするんでありまして、そのあたりの詩集の享受のあり方が気になるのであります。

   狂気の原因を自分との生活の中に探そうとする光太郎さんの努力は、同情に値するものです。

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