Mount Vesuvius has erupted in 1944.花束を投げた。(8)

本日は暖かな一日でありましたが、最高気温は20度を超えませんでした。ウェザーニュースの予報はこの数日最高気温を高めにしているんですが、どうもそこまで気温が上がらないようであります。明日からほぼ一週間20度超の予報でありまして、さてこれが当たるのかはずれるのか。予報は予報ですから外れるのは仕方ないのでありまして、ただあまり予報と実際が食い違うと叱られたりすることでありましょう。それにしても、長い長い冬でありまして、寒さがちっとも緩まなかったのには参りまして、東京近郊なら2月になればほのかに春の気配があるものなのですが、雪がどっさりと降り積もり、それがなかなか消えないほどの冷え込みに見舞われまして、日中の最高気温画像が10度を下回る日ばかりでストーブは一日中焚きっぱなしの日の多かったこと。外に出るのが嫌になりまして、運動不足も極まりました。何よりティーカップの取っ手が冷たくて、それを熱湯で温めてからじゃないと、紅茶やコーヒーを入れる気がしない冬でありました。普通の年なら氷の張らない東京の都心でも、氷が張り雪が積もったはずで、こんな年はめったにないのであります。

すみれ? ビオラそれともパンジー?

『校本智恵子抄』(角川文庫)を読み進めておりまして、戦後に書かれた智恵子さん関係の高村光太郎さんの詩を読んでおります。3番目に位置するのは、昭和23年(1948)9月21日に書かれた「噴霧的な夢」というものでありますが、そこに書かれているのは夢によって妻と再会し心を癒されてゆく様子であります。終戦後の高村光太郎さんはどんな暮らしをしていたのか、巻末にまとめられた年表を見ると、いろいろあったことがよく分かります。昭和20年(1945)4月13日の東京空襲で、光太郎さんは駒込のアトリエを失います。智恵子さんの紙絵だけは戦災から守ったようですが、後はほとんど灰燼に帰してしまったのであります。5月に花巻の宮沢賢治の実家に疎開しますが、そこも8月10日に戦災に遭いまして、稗貫郡太田村の小学校の宿直室に身を寄せ、やがて山林の中によそから移した鉱山小屋を設けて自炊生活を始めたのが10月のことだそうです。この年が63歳でありまして、光太郎さんが東京に戻ったのは70歳の時ですから、足掛け7年くらい花巻付近に身を寄せていたとあります。実は、角川文庫の年譜には昭和23年の動静が一切記されていないのでありまして、書くほどのことがなかったのか、それとも詳細な年譜にも漏れがあるということなんでしょうか。詩のほうは、智恵子さんと二人で登山電車に乗って、ヴェズヴィオ山の噴火口を覗きに行ったというような、荒唐無稽の詩でありますが、その山はイタリアはナポリ近郊の有名な火山でありまして、大昔の噴火の時にはポンペイの町が壊滅したという山であります。

   1944年3月22日の噴火によってその登山電車は壊滅したそうですが、それを知ってか知らずか。

3年くらい前の夏のことでありますけれども、草津温泉の出来たての宿に泊まりまして、妙にしょっぱい温泉を味わいました。そのあとで嬬恋村を経由して軽井沢を目指しましたが、途中嬬恋村郷土資料館を覗いて見ましたら、何やら落ち着かない雰囲気で紅白の幕などが垂れておりまして、係の人が言うにはイタリアからポンペイの噴火の犠牲者の人型が届いて、その展示のお披露目を控えているんですよと教えられました。大事な行事の準備がある画像のに、通りすがりのこちらに気を使ってくれまして、幕を開けて中をちらりと見せてくれたりしたのであります。今その資料館のサイトを見てみましたら、その日の除幕式の様子が写真となっておりまして、その館内で勝手にうろうろしていたのが私達であります。ポンペイは火砕流に見舞われて人は焼けて無くなりましたけれども、そのあとに石膏を流し込んで人型を採りまして、その人型のレプリカが嬬恋村に運ばれてきていたのであります。

ユキヤナギがどんどん開花しております。

さて、奇妙なのは、ちょうどその頃、我が家族の残り半分が折しもイタリア旅行中でありまして、それも例のナポリのあたりに差し掛かっていたらしいということなのであります。ゴミ処理がうまくゆかなくなって、観光地であるはずのナポリは何年も前からとんでもない汚い町になってしまったらしいのでありまして、それでも観光ルートにはしっかり組み込んであるようで、ナポリからはヴェズヴィオ山が見えたというのでありますから、何とも不思議なことであります。実はイタリア旅行に連れて行ってもらえなかった者がありまして、そいつを慰めるべく草津温泉に連れ出したのでありますが、嬬恋村ならキャベツを買わねばと言い出したのが私でありまして、資料館の隣の売店に寄りまして、キャベツと何かお土産を買い込みまして、それから覗いたのがたまたま人型展示落成式の会場だったわけで、随分イタリアと縁があるわいなと不思議に思っていたのであります。ほんの偶然でありますし、こうして書いてしまえばどってことのないつまらない出来事でありますけれども、その時展示を見ながら、「嬬恋村」という地名の由来を知り、さらに天明年間に嬬恋村付近を襲ったのが常温の5mくらいの土石流だったことも知ったのでありまして、嬬恋村でも被害者がまだ土の中に埋まっているはずなのであります。

   自然の脅威というものをポンペイ・嬬恋・三陸の三点セットで知った夏だったのであります。

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