I accomplished the impossible.やれやれ『こころ』を読み終えた。(9)

蝉時雨の霊園の中を、つむじ風が私の体を包んで運び去りそうに吹いたかのように感じた。空中に巻き上げられ地面に叩き落されそうな予感さえした。墓石を背にして私の前に立つ先生の幻影を見ながら、私は絶対零度の世界に連れ去られたかのような恐怖を感じて立ち尽くしてしまったのである。気が付けば奥さんはすでに笑い声を収めて私より半歩、先生の幻に近付き何事かを語りながら、しきりに私の方に視線を送り、それに伴って先生もどきの何者かがうなずきながら私を眺め渡しているのであった。私はその人物が決して先生ではないと直感しながら、しかしあるいは七年の歳月が先生の表情に深い皺を刻み、顎鬚を鬢を眉毛を白く染め、そして頬をこけさせたのではなかろうかと、記憶と現実の表情を二重写しにして眺め返そうとした。しかしその人物はみじんも自分に馴染みのあるそぶりを見せないにもかかわらず、けっして呆然としたところのない眼光の鋭さを以て、奥さんの話を受け止め、何事かを胸に刻み付けている風体であった。私はようやく額から零れ落ちる汗の雫を意識し、腰に下げた手ぬぐいを引き抜くと、まるで自分の見ている幻影が消え去ることを期画像待するように、ぐいぐいと額をこすって汗をぬぐい、ついでに何らかのまやかしがあるならそれを打ち破りたいと切に思った。「主人の兄上です」と言う奥さんの声が、蝉時雨の騒音を縫うようにして聞こえるや、その人物は「弟のK・・・・がお世話になりました」と私に声を掛けたのであるが、その声は懐かしい先生の声と似た響きで、私はその響きに酔いながら、「兄上」「弟」という言葉の内実を求めて、先生の声との違いを聞き取ろうと努めたのである。

幼虫の姿から明らかに繭に変身したナミアゲハ。

その時一羽の揚羽蝶が飛来して、奥さんの喪服の肩に留まり、羽をすぼめて一枚の平たい黒い影となった。しばらくすると、揚羽蝶はその直立した薄い黒い影を自ら押し開いて、複雑な揚羽の文様を見せ始めるのであった。私は折からの揚羽蝶の姿に視線を奪われながら、何か言おうとしてこれといった要領のいい言葉を発することが出来ずにいたのだが、ふと「先生にはご兄弟がいなかったと聞いた気がしますが」とかろうじて言っては見たものの、目の前の僧侶と奥さんの言葉に真っ向から対立する愚かしげな自分の言葉に、私自身がひどく打ちのめされる思いがした。奥さんは私の質問の意味を解しかねて、訝しげな眼差しをこちらに向け、それとともに揚羽蝶はふわりと空に飛翔しかけたが、奥さんの動作が緩慢で身をひねった切り動かないのをよいことに、再び揚羽蝶は奥さんの肩を接岸先に選ぶと見えた。先生に瓜二つの僧侶の眼底にきらりと光るものがあり、私の言葉の意味を深く胸の底に沈めながら、そこから生じた波紋を目にたゆたわせつつ、「ひょっとして、弟は天涯孤独というような話をしておりましたのか」と感に堪えないというように言うのだった。「確かに弟は、養家に断絶されはしましたし、父には叱責されましたが、先年父は亡くなりましたが、兄の私が寺を継ぎ、姉もまだ健在なのです」と僧侶は、いかにも読経で鍛えた低い張りのある声で、微塵も濁りのないと思われる声調で応えたのだ。それによって分かったことは、先生の幻影のように出現した眼前の人物は、私の知らされていた「先生」の係累ではなく、それはまったく友人「K」の縁者でありということだった。しかし、その説明は私に混乱を惹起することなく、事の真相を稲妻のように知らしめて、私は先生の遺書の腑に落ちないいくつかの点が、急速にまるで炎天下の氷が溶けに溶けて跡形もなく気化するのを見る思いがしたのである。先生の遺書には、明らかな綻びがあったが、その綻びの正体はこのことであった。その時、奥さんの肩に憩うていた揚羽蝶は、用が済んだと見えてゆっくりと羽を広げて去ろうとした。(続く)

   言いたいことは次回明らかに致しますが、先生の遺書には破綻があります。

ところで、どうしたことか我が家の庭にいる腹ペコ青虫たちは、今年は妙なところで蛹になろうとしておりまして、調子がくるっているのか、それとも元々そんなものだったのかと、いぶかしいのであります。揚羽蝶の普通のものを、「ナミアゲハ」と言うらしいのでありますが、これが庭のあちこちに植えてあるヘンルーダで養われているのであります。ヘンルーダは、園芸店では「ルー」という名前で売られているハーブでありますけれども、ミカン科のかつて画像の代表的な植物でありまして、ミカン科は昔はヘンルーダ科と称したはずであります。このヘンルーダから抽出されたのが「ルチン」でありまして、お蕎麦なんかに含まれていて、結構ビタミンに近い扱いを受けるものでありますけれども、今では科学的に合成できるので、この植物はさほど重要ではなくなったのかもしれません。ナミアゲハの幼虫は、この植物の葉をモリモリ食べてせいちょうしているのであります。

雲の厚い夕暮れ、クレオメが妖艶な色に。

ヘンルーダは軒端に一大勢力を築いていたのでありますが、これが夏の間に茂りに茂って、何度も剪定するのが面倒だったものですから、庭の東南、西南、西北、四隅のうちの三か所に移植を図りまして、これがほぼ計画通り茂ったのであります。今や西北の角のヘンルーダは隆々としておりまして、やっぱり剪定しないと生活に不便をきたすのでありますが、そこにしっかりナミアゲハが居付いているのであります。ところが、どうやらその茂みを抜け出して、玄関扉に張り付いたり、その近くの柱にしがみついたりしまして、そのまま蛹になろうとしているのであります。構いませんけれども、何となくゴミの様な、チューイングガムを張り付けたような有様でありまして、これは一つの蛇足の姿でありましょう。夏目漱石さんの『こころ』の続編を、勝手気ままに書き続けてみたのでありますけれども、それもまた蛇足の極みであります。お読みいただければ分かりますが、先生の遺書は実は真赤な偽りが紛れ込んでいるという指摘をしてみたかっただけなのであります。もしかすると、漱石さんは「先生」と友人「K」の二人の人物を造形しながら、どちらを殺すか、どちらを生かして遺書を書かせるか、しばし悩んだのではないでしょうか。

   さて、『こころ』を読了した勢いで書いてきた続編も次回で完結です。

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