Anthology of parody poems.もぢり百人一首(21)

21 今行くと 有明までも 待たせけり こは長月の 秋の夜長に

(通釈)あの人ったら、すぐに行くよってLINEしてきたけれど、夜明けまで私のことを待たせるなんて、ひどいわ。それもよりによって、九月になって夕暮れが早くなり、夜明けも遅いこの秋の夜長の季節に。ああ、待ちくたびれた。

(語釈)○有明……ここは夜明けのこと。有明の月は、旧暦二十日前後の月で、十五夜に比べると月の出は遅く、二十日であれば深夜十二時くらいとなる。その結果、夜が明けてからでも月が空に架かることになり、それを有明ともいう。別に朝になって昇るわけではないことに注意がいるだろう。○長月……旧暦(太陰太陽暦)の9月のこと。平均すれば現在の10月上旬から11月上旬くらいに相当するが、年によって一か月くらい前後する場合があるので、太陽暦の9月と重なることもあれば、冬の場合もある。旧暦では9月は晩秋に相当し、9月9日は重陽の節句であり、また9月13夜は名月である。ともかく、夕暮れは早く、夜明けも遅い時節である。○秋の夜長……夜永とも記すが、夜が長いこと。

(本歌)今来むと 言ひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな
   (『古今集』巻第14・恋歌4・691番 素性法師「題知らず」)

素性法師作の本歌には、一夜だけ相手を待っていたのか、延々と待っていたのかと言う解釈の対立がある。さらに、この歌の中における、現在時刻についても、近年の注釈では混迷している。ぱっと見には簡単な歌のようであるが、解釈する人によって思いがけない様々な情景が描かれてしまう歌と言えそうである。「待ち出づ(まちいづ)」と言う動詞は、現代語なら「待ち出る(まちでる)」という動詞となるはずであるが、『日本国語大辞典』(第二版)はその形での項目の掲示を見送ったようで、「まちいず」「まちず」として掲載している。「まちいず」については、「待ち受けていて会う・出て来るのを待つ」と言い換えているが、「いず(出ず)」に重点を置くのはかなり疑問がある。「月を待つ」という言い方は成立するが、「月をいず(出づ)」という表現は非常に問題があるだろう。おそらくそういう日本語は成立しないはずである。本歌の「出で」は月の縁語として使われていると考え、実はここは「~し始める」という補助動詞の用法と解くのがいい。「待ち出づ」で「待ち始める」とするのが自然であろう。よって、本歌を解釈するなら、「すぐに来るよとあなたが言ったばかりに、(なかなか秋の夜長に上らない)九月の有明の月を、待ち始めたことよ。(早く来てね)」という、親密な相手の訪問を、有明の月が出るのを待つように、心待ちにする歌と理解するべきだろう。古代においては、外出は月明かりを頼りにしたりするから、待つ者は月の出のころに月明かりでやって来るのを期待するはずである。諸注釈では、これが何故か長らく待ちぼうけを食った歌となっている。しかし、この歌が入っている勅撰集『古今集』を見ると、その前後の歌とはそれでは噛み合わない。勅撰集は似た趣向の歌を並べて配列するのが基本である。まして、有明の月を夜明けに上ると勘違いして、朝になっているとする注釈は、月の満ち欠けや月の出月の入りの知識に疎いのであって、まったくの誤りである。特に角川ソフィア文庫『百人一首』。有明の月は深夜に上るものである。パロディの方は、そうした誤読を形にしてみた。もちろん、本歌が宵の口の歌であるから、それをもじって時間を推移させてみたのである。素性法師は、僧正遍照の子息。

  『百人一首』の解釈も、比較してみてみると、これが諸説紛々、大変そうなのであります。

気になるのは、『日本国語大辞典』でありまして、さすがに「まちでる」という形で辞書に採録することをためらったようであります。「まちでる」は現代語にはないという判断であります。つまり、「まちいづ」は死語になってしまったということみたいですが、戦後の仮名遣いの規則によって「まちいず」で出さざるを得ないというのは、もうなんだか腹の皮がよじれるほどの面白さでありますけれども、ほんとうによじれるほどのものかどうか。「おもひいづ」という動詞がありまして、これは現代語では「おもいだす」であります。古語で「出づ」だったものが、「出す」に変じたわけで、言葉と言うのは不規則に変遷することが分かります。これに準じて考えると、「まちいづ」は「まちだす」になっていいわけですが、「まちだす」という形の言葉は採用され画像ていないのであります。しかしながら、「いづ」の補助動詞用法を「だす」が引き受けている可能性があるなら、素性法師の歌は「有明の月を待ちだしたことよ」となりますから、この形で現代では少しも変ではないのでありまして、それならそれは宵の口の彼の来訪の約束を信じて、わくわくして秋の夜長に待ち始めた歌となります。有明月の月の出と、彼氏の来訪がリンクしまして、男を月に例えるという古典のお約束にもかないまして、すんなり解釈が出来ます。そうやってこれを味わってみれば、何でもない結構意志疎通した恋人か夫婦のラブラブの恋の歌なのであります。それなのに、従来の注釈書に従うと、素性法師の歌は振られ女の恨み節みたいなんであります。大岡信さんの講談社文庫『百人一首』なんかでも、「『待恋』のつらさ」とありますから、この調子のいい歌に対して、不安、悲観、絶望と取るんであります。変なの。作者が男でも、女性の立場で歌を作ることがあったというのは、これはよくあることであります。

昨日来ていた近所の猫。後ろはナンテン。

庭で写真を撮っていたら、じっとこちらを見ていたようであります。数年前は子猫だったんですが、いつの間にか大きくなって堂々としております。さて、素性法師の歌に対する注釈がどうして変なのかと言うと、『古今集』のこの歌の前後を見てみると、どれも結構有名なラブラブの歌でありまして、藤原定家は『新古今集』の撰者でありますから、撰者として配列を検討するのはお手の物だったはずで、素性法師の歌がどういう趣向の歌かと言うことは分かっていたはずであります。一つ前の歌も、一つ後の歌も詠み人知らずでありますから、たぶん『古今集』当時としては耳慣れた歌でありありまして、そこに素性法師の歌を挟み込んでみたのでありますから、これは紛れもなく男の来訪を待ち始めた歌であります。来るのか行くのか、すぐに来るよ、間もなく行くよ、来いと言うのも同然、ということなら、これは夜明けの歌のはずがないのであります。

690 きみや来む 我や行かむの いさよひに 槇の板戸も ささず寝にけり
691 今来むと 言ひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな
692 月夜よし 夜よしと人に 告げやらば 来てふに似たり 待たずしもあらず


これを見て思うのは、電気なんかのない時代でありまして、満月前後の月明かりなら人を待つんですが、そうでなければ寝てしまうこともあるということです。当時は男が女の家に通うのが普通で、たぶん婚姻届けなんかない頃でありまして、基本は実質婚でありましょう。その日その日連絡をしあったり、前回の逢瀬の時に約束を交わしたり、来ると分かっていたら寝ずに待つのでありまして、そうでなければ寝てしまうということです。素性法師の歌は、なかなか空に上らない有明月を待つんですが、問題は晩秋の九月ですから、夕暮れは早く、有明月が空に上るまでは随分時間がかかるのであります。それでも待っているんですから、もしこの歌が相手に届けば、相手はせかされつつも待ち受けている人の情熱をほほえましく感じるはずであります。宵の口の歌ではないかというのは、そういうことを言っているのであります。690~602はそういう歌でありまして、実は689~694がそういう待つ宵の歌みたいに読めるのであります。

    昨日の記事に対するアクセスが半端ではありません。恐ろしいくらい。

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