The corn is not soft,but indurated.魚の目は硬い(9)

盗人呼ばわりされた競泳の選手の話題が出たと思ったら、今度は高校生がサッカーに行った隣国で万引きを働いたという話題が出てきまして、こちらは不名誉極まりないケースでありまして、困ったものであります。我が家に昔、泥棒が入ったことがありまして、こいつは別件で逮捕されて一件落着したんでありますけれども、そいつが侵入した時、それから現場検証で連れて来られたとき、その二回とも、本来なら私とかち合うはずであったのに、二度とも顔を合わせずに済んだのでありました。侵入した時は、私が通常なら帰宅する時刻だったのでありまして、私はタッチの差でバスに置いて行かれたのであります。現場検証の時はお盆だったんでありますけれども、床屋に行きたくなって散髪していたのであります。最初は私が疑われたんですが、疑いは晴れまして、晴れただけではなくて防犯を画像呼び掛ける街頭演説まで仰せつかりまして、褒美に国語辞典をいただいたのであります。しかし、高校生の防犯の為の街頭演説などというものは、空前絶後、その後の人生でお目に掛かりませんでしたから、あれは警察署なりのけじめであると数年前に気が付きました。疑って申し訳なかった、学校に探りを入れて済まなかったというようなことを、あとで婉曲に態度に示したみたいであります。国語辞典は宝物として今でも本棚に並べ、パソコンから目を上げた正面に入れてあります。

ギボウシの若い葉が出ました。ウルイ?

さて、例の『奥の細道』でありますけれども、芭蕉先生は現実には千住のあたりで「鮎の子のしら魚送る別れかな」と詠んだようですが、あとになって「行く春や鳥鳴き魚の目は涙」と差し替えまして、その意図は分かったようで分からないのであります。「魚」にまつわる句であるという共通点がありまして、「送る」とか「別れ」という言葉に対して、「行く」「鳴き」「目は涙」という表現に変化しておりまして、なるほど惜別の歌を作るのに「送る」「別れ」は直接過ぎて味がなく、そう言わずに、「魚鳥」が春を惜しむというコンセプトで、表面的には季節の推移を主題に据えたのだと分かります。同じ比喩でも、「鮎の子」と「しら魚」を一つの句の中に閉じ込めれば、これはくどいのでありましょう。尾形仂さんの『おくのほそ道評釈』によれば、この差し替えは、『奥の細道』の末尾と照応する句にするのが狙いだったのではないかと指摘しておりまして、これはそうかもしれないと直感いたします。

   要するに作品のトーンを首尾呼応させて、作品の完成度を高めたわけだ。

そうなると、最後のところの句というのが非常に大切になりまして、旅の終わりを締めくくった句に対して、旅の初めの千住の句がお粗末ではいかんというような判断なのだろうと思われるのであります。じゃあ、末尾はというとこれは結構有名な句でありまして、もうほとんど和歌の修辞を使ったものでありまして、その修辞が和歌に比べて卑俗であったということなのであります。

   旅のものうさもいまだやまざるに、長月六日なれば、
   伊勢の遷宮おがまんと、又ふねに乗りて、
     蛤の ふたみに別れ 行く秋ぞ


「蛤の」は「ふたみ」を導く序詞の役割を果たしております。五音ですから序詞というのは気に掛かりますが、まあ枕詞というほどの慣用性はありません。「ふたみ」のところは、蛤の「蓋」と「身」を言うのでありますが、これはもちろん伊勢の遷宮とある詞書の部分によって、伊勢の「二見が浦」というものが掛かっているのは明白であります。自分は画像二見が浦に「分かれ行く」というのでありまして、この「行く」のところに「行く秋」が掛けてあるという手の込んだ掛詞・縁語の凝らされたものであります。芭蕉というのは俳諧の宗匠ですが、この時代の俳諧は連歌俳諧でありまして、実は連歌を一座でこしらえ、それを批評したり、ほめあげたりして集団で作品を作り上げるのが大切だったのであります。

花冷えや 目には青葉の 滲みるころ(粗忽)

連歌というのは、上の句と下の句を別人が詠んで一首の和歌をこしらえることでありますから、要するに和歌の伝統をいかに即興で披露するかという点に力点がありまして、その上でいかに俳諧の味を出すかというところが見どころであります。「二見が浦」を提示するのにもかかわらず、「蛤の蓋身」という取り合わせが新味を醸すわけで、これを翻って第二句に求めると、「鮎の子のしら魚送る別れかな」では比喩は有っても縁語・掛詞には乏しいわけで、そうすると差し替え案の「行く春や鳥鳴き魚の目は涙」というのは、一見魚鳥も惜春の情を示すという見かけに対して、旅先で鶏鳴に起きて距離を稼ぎ、足の裏の魚の目に難渋するという俳諧の隠し味は捨てがたいような気がするのであります。悲壮感だけの旅立ちというのが従来の注釈の指摘ですが、それじゃあ蛤が無機物の貝殻と有機物の身とに分身するという面白味には、到底並ばない事でしょう。「魚の目」は、足裏の疾病を暗示するはずなのであります。

  「魚の目」が元禄年間の上方の流行語なら、芭蕉先生が句に取り入れて当然ですな。

 

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