Anthology of parody poems.もぢり百人一首(19)

19 難波潟 葦の丈ほど 逢ひたくて 今度の予定が 合はで悲しき

(通釈)難波潟に一面に広がる葦の、伸びに伸びて長くなるだけなったその背丈のすごいことよ。その葦の丈ほど、きりも限りもなくあなたに逢いたく思っているので、次に会う日取りがうまく取れないことで辛く切ない思いを味わう私。

(語釈)○難波潟……淀川の河口付近のこと。現在の大阪市の海岸部分に当たる。「潟」というのは遠浅の海岸で、潮の満ち干によって浜辺が消えたり現れたりするところである。また、そうした地形の浜辺を指す。○葦……イネ科の植物。河川の下流域に繁殖し、丈は2メートルから6メートルに達することがある。屋根をふく茅として利用するほか、簾や葦簀を作る材料でもあり、古代の家屋や調度には不可欠なものであった。難波潟も葦が繁殖し、それを収穫する「葦苅」は重労働であった。漢字としては「葦」のほかに、「芦」「蘆」などと表記する。

(本歌)難波潟 短き葦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや
   (『新古今集』巻十一・恋歌一・1049番 伊勢「題知らず」)

本歌となった伊勢の歌は、修辞技法についていくつかの対立点がある。「難波潟短き葦の」を序詞として、「ふしの間も」を掛詞と解く場合があるが、「節の間も」にはそれ以外に掛けている言葉が見当たらない。辞書の中には「節の間」で「少しの間」とするものがあるが、信用できない。むしろ、節と節が「合はで」と、あなたと私が「逢はで」を掛けたとみなし、上三句の「難波潟短き葦の節の間も」を「あはで」を導く序詞とする方がましかもしれない。「この世」は「節(よ)」の掛詞である。女流歌人伊勢の歌ではあるが、むしろ噂に聞いた女性に対して交際を迫る男の歌とみなしたほうが、『新古今集』の恋歌一での配置に納得がゆく。すなわち、初句で「難波潟」と広大な難波の葦原を想像させ、そこに背丈の高い葦には不似合いな「短き」という修飾句を持ってきて、「節の間」というふうに焦点を絞っている。葦は茎から葉が直接出るために、葉を落として加工すると節の部分のゆがみが案外目立つものである。特に、室内調度とする簾などの場合には、節のずれが案外気になるものである。それを「節の間も合はで」と言っているのである。よって、歌の主旨は、「(汝と)逢はで(我に)この世を過ぐしてよ」と言うのかと迫るだけの話であろう。

   力みかえって解説してみましたが、いかがでありましょう。

『百人一首』というのは、探せばいくらでも注釈したものがありまして、昭和40年代50年代には力作ぞろいだったのであります。ただし、江戸の昔から従来の説をありがたくコピーアンドペーストするか、諸説を網羅するかどちらかで作られたものでありまして、別にちゃんと考究されてきたわけでもないようであります。近代においては万葉集の専門家と平安時代の専門家は別でありまして、中世には中世の専門家がいたわけでありますから、実は『百人一首』を一人の人が考究し尽せるのかどうか、怪しいところもあるでありましょう。出版社は売るわけですから、当然ながら一首で1ページもしくは見開きをあてがうわけで、限られたスペースでは語りつくせるわけもなく、よく言うお茶を濁す程画像度の説明であります。さらには、簡単で分かりやすいというのを売りにしたり、優雅で上品な王朝絵巻を企みますので、商業ベースに合わせると従来の説を焼き直したほうが無難でありまして、珍説・奇説を述べてもまずいのは火を見るよりも明らかなのであります。よって、いつも思うのでありますが、実はちっとも解釈は行き届いていないような気がするのであります。

氷点下 ここだけ春の 藪の梅(粗忽)

考えてみると、歌と言うものは、詠む歌人は必死に作るわけで、そのエネルギーたるや大変なものがあるわけですが、受け取る側がみんながみんな必死の形相で味わい尽くすわけではありません。字面を見たり、口に出したりしまして、やがて覚えてしまえば折に触れて唱えたりするわけですが、必ずしも意味を正確に汲み取ろうとか、正しく解釈しようとするものではありません。近年の歌謡曲だって同じでありまして、作詞家の努力ほどには、聞く側は真剣ではないのであります。子供のころに聞き覚えた歌謡曲の歌詞を、大人になった今改めて吟味すると、実にたくさんの誤解をしていたりしまして、思わず苦笑することになります。「骨まで骨まで愛してほしいのよ」と来たら、骸骨になっても抱きしめなきゃいけないのかと思いましたし、「世の中変わっているんだよ」と言われたら、そうだよな世の中はへんちくりんなもので満たされているわいと、子供時代の私は思ったのであります。たぶん、正しくは「死ぬまで愛してくれ」と望んでおりますし、「世の中は絶えず変化しているのだ」と一般論が展開しているのであります。これと同じようなことが、『百人一首』にあっても驚かないわけで、実は伝統的な解釈も大したレベルじゃないのであります。良心的なものを見たら、ちゃんとそのことは書いてあります。わんわん。

   本日は力みかえって終わってしまいました。負け犬の遠吠えであります。

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