I paid a visit in the hospital.くづほれている。(8)

晴れて日差しが暖かい気がしましたので、日ごろお尻に敷いている座布団などを日に当てまして、何となく生活の節々に広がっている沈滞感を何とか払拭しようと努力するわけであります。陽光にさらす、風に当てるというのはいろんな意味で健康的でありまして、湿っていたものが乾いたりしてさっぱりするものなのであります。ただし、書籍などに関しては太陽の光はまずい場合もあるわけでありまして、古本の町である東京の神田界隈に行きますと、古本屋は北向きの日の当たらないところにずらりと並んでいるわけで、道路の向こう側にはほとんど本屋は存在しないのがすぐにわかります。本に日光浴させたのでは、うっかりすると単行本の表紙が反り返ったり、日に焼けてしまって売り物としてはダメージが大きいことでしょう。Amazon・comなどで本を買うときに、やっぱり安いので古画像本を買ってしまうのでありますが、届いてみるとほとんど新品でありまして、日に焼けた本なんて届いたことがないのであります。これを見ると、自分の持っている古い文庫本などを「古本」と称して売り払うのにためらいが出てくるのでありまして、日に焼けたり表紙が汚れていたりページの隅を栞代わりに折ったものを見ていると、「古本」をこえて「汚本」と呼びたくなるような気がします。

あまり変わり映えのしない水仙。

変わり映えがしないのにいちいち撮影して掲示しているのには理由がありまして、この水仙は大きなイヌツゲの下にずっとあったものでありまして、枝葉の下に隠れていて普通にはどこからも見えないのでありました。イヌツゲの周りにはマツがあり、カイズカイブキの大小の木があり、庭の奥に分け入らないと見えないのでありまして、実は我が家の家族もよく見たことがないはずだったのであります。そこで、去年の初冬にわずかに芽が出たのを見つけまして、スコップで球根ごと掘り取りまして、軒端の日当りのいいところに移し替えたのであります。ただし、日当りはいいのでありますが、屋根の落雪が直撃するところでありまして、前回の大雪の時には木の葉でうずめて難を逃れましたが、今回は少し芽が伸びましたので直撃は避けたいと思いまして、古い金盥を持ってきてかぶせておいたのであります。その甲斐があってこうして無事でありまして、すくすく伸びるのを期待しておりますが、冬はいまだに居座っておりまして、残念ながら水仙が茎の丈を伸ばすには温度が足りないような気がいたします。今年はカタバミが全く不振でありまして、買ってきた鉢植えなどを玄関に並べておりますが、もうそろそろ春が来るべき時だろうと思うわけで、春よ来い、早く来い、というような気分であります。

   『校本智恵子抄』(角川文庫)を読み進めております。補遺編についている日記の部分。

初版『智恵子抄』から省いたものが、今は補遺ということで初版の後に整理されて掲載されているのであります。補遺編の最後は、日記から抄出したと思われる「某月某日」という文章が4篇付いております。初版にはこういう文章は付いておりませんから、もしかしたら初版に掲載することにした文章に関しては、「某月某日」というのをやめてそれぞれ適切なタイトルを付けたのかもしれません。どうやら光太郎さんは妻の発狂した現状を詩だけでは表現しきれないと見て、日記形式の中で病状やら自分の心境やらを表現しようと試みたようであります。編者が便宜上それぞれの日記の冒頭を識別のために書き留めており画像まして、4篇の最初の文章は「某月某日(今日は病院へ)」というものなのであります。本人ではないので、便宜的に名前を付けたのは仕方ありません。この一編は昭和十一年六月一日刊帝国大学新聞発表とありますから、おそらくは東京帝国大学の新聞に書いた一編なのでありましょう。どういう経緯で帝国大学新聞に掲載したのか気になるところでありますが、この新聞は現在の東京大学新聞と直接継承関係はなかったようでありまして、旧制の帝大時代の新聞であったようです。

カイズカイブキの生け垣の上に広がる青空。

実は角川文庫の年譜では、昭和11年(1936)の高村光太郎・智恵子夫妻の動静はまったく空白でありまして、二人が何をしていたのか不明であります。智恵子さんに精神異常の兆候が表れたのが昭和6年(1931)、自殺未遂が翌年にありまして、昭和8年(1933)に入籍を果たしまして光太郎さんは責任の所在をはっきりさせたようでありまして、その翌年に九十九里海岸に智恵子さんを転地させましたが、年末には駒込のアトリエに連れ戻したそうです。そうして昭和10年(1935)二月の末に品川にあるゼームス坂病院に入院させましたが、年譜ではその翌年の昭和11年が空白ということです。智恵子さんが亡くなったのは昭和13年10月5日でありまして、亡くなった時が53歳(たぶん数え年)でありましたので、智恵子さんは46歳から7年余り狂気にさいなまされて力尽きたのであります。昭和11年において光太郎さんは智恵子さんの狂気の原因を、「私との不如意な生活の中で愛と芸術との板挟みに苦しみ」と分析しておりますが、不如意とは貧乏のことでありまして、余裕のない二人暮らしの犠牲になったと臍を噛んでいるのであります。「今日の医学はまだ病勢の監視以上には出てゐない」と、医者に預けても治療の方途のない悔しさを吐露しておりますが、80年後の現在も統合失調に関しては同じようなものでありましょう。治療法が確立しているなどという話は聞こえてきたことはないのであります。冒頭に「今日は病院へ智恵子を見舞に行つて来て、心が重く、くづほれていゐる」と書いておりますが、「くづほれる」は現代語の辞書では「くずおれる」なんだそうでありまして、気力体力が失われた状態を表すそうであります。今は使わない言葉のような気がいたします。

   よく考えると光太郎さんはこの時50歳を超えておりまして、しかし愛妻を想う気持ちは強烈です。

  

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