My house seems to be a vacuum tube. 茶粥を煮る。(9)

もしもあの人が生きていたら、というようなことは、考えてみても仕方のないことでありますが、しかし多少は考えてみてもいいことかもしれません。人の亡くなり方というのも、寿命があり、病気があり、不慮の事故があり、戦争が画像あって、考えてみればいろんな死に方があるのであります。昔東京都知事だった美濃部亮吉さんは、元は学者さんでありますけれども、書斎で机を前に椅子に腰かけて老衰で亡くなったんじゃなかったかと思います。まあ、最高の亡くなり方かもしれず、この場合はあんまり心配の要らない理想の最期を遂げたと言えることでしょう。やはり若くして亡くなると、今生きていたらこうだったろうああだったろうと考えてしまうのも仕方ないのであります。

本日の朝の桜。曇天で写りが悪いのが玉に瑕。

さて、高村光太郎さんの詩で智恵子さん関係の詩を集めた『校本智恵子抄』というものをつらつら眺めているのでありまして、今は『智恵子抄』以後という第二次世界大戦後の詩を読んでいるのであります。光太郎さんは、終戦間際の戦災で東京駒込のアトリエが焼けまして、岩手県の花巻に疎開するんですが、そこでも戦災に遭って、花巻近郊でしばらく戦後を過ごしていたのであります。光太郎さんは昭和13年に亡くなった智恵子さんのことを忘れずにいるのでありまして、やはり智恵子さんの尋常ではない病気と死去に心を痛めて引きずっていたことが分かります。戦後の智恵子さん関係の詩の四番目は、「若しも智恵子が」というタイトルの、あるいは出だしの詩でありますが、これは昭和24年(1949)3月10日の詩でありまして、明らかに初版『智恵子抄』やその補遺と趣が違ってきております。前の詩で智恵子さんとイタリアの火山を身に行く夢を見ておりまして、それによってかなり癒されたようでありますが、「若しも智恵子が」の場合は、「…ここに居たら」と続くのでありまして、読みようによっては未練たらたらのようでもありますが、実は光太郎さんは智恵子は死んでからも自分の周りにいると豪語しておりましたから、ここにきて智恵子さんが死んでいる、自分の身の回りにはもういないということを受け止め、それを前提に借りに智恵子がここに一緒に居たらという詩を書いたのであります。これは相当の前進でありまして、妻の死を受け止め、その智恵子さんが生きていたらこうするだろうああするだろうという空想を楽しんでいるのであります。死後10年が経過し、智恵子さんとの思い出のない花巻での山小屋暮らしが板につきまして、智恵子さんの元気だったころを思い起こして、元気な智恵子さんとの暮らしを想像しているのであります。この時光太郎さんは67歳。ここで想像する智恵子さんは、おそらく光太郎さんにとっては娘ほどの年齢の若い日の智恵子さんでありましょうけれど、それでも光太郎さんは心の健康を取り戻して、楽しい空想ができるところまで回復したのでありましょう。智恵子が居たら、この住まいは真空管みたいだったろうというのであります。

  さわやかに笑い、夫に食事を提供し、夫の仕事にインスピレーションを与えたはずだと言うのです。

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