Anthology of parody poems.もぢり百人一首(23)

23 月みれば 千里ひとりが 悲しがる 燕子楼なる めんめんの夜
                         (えんしろう)

(通釈)月を眺めると、万人がしんみりと思いに浸るものなのに、大江千里は自分ばかりが悲しいとばかりに歌を詠む。それもこれも、徐州の燕子楼で亡くなった張尚書を偲んでいる眄眄(めんめん)の秋の綿綿と長い夜を思い浮かべてのことに過ぎないが。

(語釈)○千里ひとりが……大江千里が一人だけ、または、大江千里一人だけが、の意。大江千里は、大江音人の子。阿保親王の孫にあたる。在原行平・業平の甥にあたる。歌人だが漢詩にも優れていた。○燕子楼……中華人民共和国江蘇省の徐州市にある名勝。徐州は北京と上海のほぼ中間に位置し、揚子江の北に位置する。漢の高祖劉邦の出身地でもある。徐州市は人口が市街地で170万人、全体で900万人を超える大都市である。○めんめん……眄眄のこと。徐州燕子楼で暮らしていた、張尚書の愛妓。白楽天の『白氏文集』巻15に「燕子楼三首并序」があり、友人からこの女性の話を聞いた白楽天が漢詩を作っている。「眄」は「右顧左眄」という熟語に使われているから、漢音では「べん」であるが、五音では「めん」。人名に、「綿綿」を掛ける。「綿綿」は、途切れることなく長く続く様子を言うことば。○なる……断定の助動詞の連体形だが、「~にある」という存在を表している。

(本歌)月見れば 千々に物こそ 悲しけれ 我が身一つの 秋にはあらねど
(『古今集』巻第4・秋歌上・193番 大江千里
          「是貞親王家の歌合によめる」)

(本説)『白氏文集』巻15「燕子楼三首并序・其一」
満窓明月満簾霜  窓に満ちる明月 簾(すだれ)に満ちる霜
被冷燈残払臥床  被(ふとん)は冷たく灯(ともしび)残して臥床を払う
燕子楼中霜月夜  燕子楼中 霜ふる月の夜
秋来只為一人長  秋来たりて只だ一人の為に長し

大江千里は、白楽天の『白氏文集』をもとに、秋の夜長の孤独を歌にしたのである。この場合詠作主体は眄眄(めんめん・べんべん)という、妖艶で美しい愛人である。そして、彼女を心から愛した旦那はすでに故人となっている。歌合に提出した歌だから、別に大江千里の生活体験を提出するわけではなく、当時世間で大評判だった『白氏文集』の中の詩を、和歌に移し替えたのであり、「千」と「一」の対照が味わいを添えている。ただ、一般には「千々に」を「さまざまに」などと解することが多いが、これはそうではなくて、現代語の「千々に心乱れる」という用法から見ても、「限りなく・際限なく」というような言葉のはずで、この点従来の説は上滑りしている可能性が高い。千里の趣向の眼目は、月が男の象徴であることで、秋の煌々と照る満月を見て男を失った傷心を深め、孤独にさいなまされる様子を表現している。そして、下の句は理性では万人に訪れる秋に過ぎないと分かっていながら、ベストパートナーを失った自らの不運を嘆く様子を言っている。パロディの歌は、「燕子楼なる」を「めんめん」を導く序として機能させて、「めんめんの夜」で、孤独のまま眠れぬ夜が長いことを表現してみた。

  生真面目に考えると非常に疲れます。漢詩はむずかしいや。

白楽天の燕子楼に関する漢詩と言うのは、実は友人が作って来た漢詩に対するお返しでありまして、白楽天が自然に作ったというようなものではないのであります。問題なのは、白楽天の三首の漢詩が、眄眄さんに伝わりまして、その結果彼女は自殺してしまったという逸話があるのです。どうも白楽天の漢詩が、彼女を皮肉るようなないようだったのではないか、という説があるわけです。これに対して、白楽天の漢詩はそんなものじゃない、彼女の貞節に敬意を表するものであるという反論がありまして、結局白楽天という詩人をどう評価するかと言うところに行き着くみたいなのであります。『長恨歌』という長編の詩を見たら、白楽天の感性と言うのはけた外れに感受性が強くて、人を愛する純粋な気持ちというものに対して、共感性が高いのは間違いなさそうでありますから、一途な女性を傷つけるも画像のであったはずはないのであります。大江千里の歌を見ても、少しもふざけたところがないわけです。唐の時代に遣唐使を派遣して異文化を受け止めたことが和歌の活性化につながったのでしょうけれども、ちゃんと人間的な摂取をして和歌を詠んだことがわかります。そう考えると、大江千里の歌はうまいなあ。正岡子規は貶したそうですが、それでいいのかどうか。

ユキヤナギの枝が緑になって、春は近い。

10年前ならパソコンを開いたついでにブログを書いていた人が多かったのでしょうけれども、今やスマートフォンですべて済みますので、わざわざパソコンを立ち上げる必要のなくなった人が多そうであります。その結果、おそらく数年のうちにブログは激減することでしょう。LINEに写真でも何でも掲載できますから、あとでいちいちブログに文章を書いて写真をアップする必要はなくなったのであります。ノートパソコンを持ち歩くという風俗は10年前ならおしゃれだったかもしれないのですが、いまや何を大げさな、あるいはスマホを買えないの?というような視線を浴びる心配もあります。それにしても、たまに家族に連絡を取る程度の使用だとスマホは不要でありましょう。いっそ、全く持たなくても不都合がなさそうであります。後数年後には、街角にスマホボックスでも用意してもらって、知りたい情報やらニュースはそこで足りてしまうかもしれません。後は手ぶらでのびのびしてもいいんじゃないのと思うのであります。流行だからみんなで使ってみておりますけれども、有益な使用にまで届いている人は少数でしょう。ブログはもう一部の人の暇つぶしであります。私も毎日書いても、あまり人のを読んだりしていません。

  こうなると分かってブログを盛んに書き始めたへそ曲がりであります。

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