掌小説(4) 地下の霊安室・下 その2

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写真はフォトライブラリーからダウンロード。
撮影者は、北海道で写真修行をしている
という”RUCA”さん。







 大倉靖男は、観葉植物の葉の茂みの隙間から、立ち去ってゆく谷村圭吾の背中を見送っていたが、振り向いてこちらの存在に気が付きはしないかとひやひやした。午前2時の時報のあとはふたたび柱時計は振り子の規則的な音を立てるだけだったが、そのかすかな音が背後から靖男の存在を脅かすように聞こえている。圭吾はロビーに差し掛かるとさっとエレベーターの方へと向きをかえ、姿が見えなくなった。しばらく間があってから、エレベーターが到着するときのチャイムがかすかに鳴り、ワイヤーの引き上げられる唸りが低く廊下を這って来て靖男の耳に届いた。ロビーには人気が無くなり、館内に迷い込んだコガネムシが天上のあたりでブンと音を立てて旋回するのが見えたきり、静寂が広がるのが分かった。柱時計の振子の音とともに、靖男は自分の呼吸の音を感じて地下に降りるなら今だと直感した。おそらく階段下には通路があり、病院であったならボイラー室であるとか、リネン室であるとか、そう言ったものがあるはずで、それらは今でも使われていることだろう。そして、おそらくエレベータにほど近いところに霊安室が配置されているはずなのだ。

 階段を下りはじめてすぐに、靖男はスリッパを脱いだ。圭吾はスリッパの音を立てながら階段を上がってきたが、それはさすがに無神経だと靖男は思った。ひょっとすると圭吾も自分と同じように地下に向かう時は音を立てなかったのかもしれないが、さっきの圭吾の立ち去り方を見たら、霊安室も含めて地下は何の面白みもなかったのかもしれない。今は使われていない壁だけの部屋。せいぜい換気用の窓が地上部に面した部屋の天井近いところに設けられているだけ、遺体を載せるための実用的なベッドが二つ、せいぜい三つ置かれて、奥には祭壇用の棚が用意されている、それはこの世でもっとも簡素な部屋かもしれない。そこで生活するはずはなく、ましてやそこに長居するはずのないところだ。そう思って、ふと靖男は自分の部屋を思い浮かべた。

 近ごろはとんと部屋で何かすることもなくなっている。食材も書籍も、部屋に持ち込めばやがて腐ったり陳腐になったりするから、持ち込むのは眠たくなっていたり疲れ切っていたりする自分の肉体だけであり、そこで泥のように眠るが、目が覚めれば着替える時間も惜しいと思ってそこを後にして出かけてゆく場所になっている。一時滞在の場所は、余計なものなど持ち込まず、余計な装飾は一切不要なのだ。これから覗こうとする霊安室は仮の住いにふさわしく、そう考えれば考えるほど、霊安室と言うものは、入院してここで死んだ者にとって、必須でありつつ、決して継続して使うことのないこの世での最後の身の置き所ではないか。この世もまた、霊安室みたいなものかもしれない。そろりそろりと階段を下りながら、靖男は霊安室の存在を頭の中であれこれ思いめぐらしてしまうのだった。そういう想像力の一方で、今は頭の高さより上となった一階の廊下の床に気を配って、誰かに見咎められるときの心構えをした。

 階段が終わると、地下の通路に出た。リノリウムの床が天上の蛍光灯の光を受けてぼんやりと照りを帯びている。スリッパを床に置き、そっと履いて、それを引きずるように歩き始めた。通路の右は突き当りとなっていて、サビの浮いたロッカーが置かれているが、どうやら手前が洗面所の入り口になっていると見え、ドアがない。左にターンして歩いてゆくと、これもドアがないが、通過するときに目の端に流しや湯沸しが見えたから給湯室なのだろう。突き当りが右に折れているのが分かったが、天井の蛍光灯が切れていて曲り角は薄暗く、足もとが見えない。右手の向こうから蛍光灯の光が射している。エレベーターのあるあたりに近付いているはずだから、そろそろ霊安室があってもいいだろうと靖男は思った。曲がり角の翳りの中に身を隠すようにしながら、右手の明るい方を慎重に視野に入れてみると、通路はさらに奥へと伸び、天井の蛍光灯がポツンポツンと下がっていて、暗くはないのだった。足もとのスリッパが床に擦れる音はかすかではあるがそれでも鬱陶しく、自分の吸い込む息の音がはっきりと聞き取れるほどで、緊張を強いられている耳が精一杯周囲の音を逃すまいと働いていることが分かった。深夜の地下の静寂が、かえって低く唸る動物の声のように、靖男をおびやかし続ける。

 霊安室は、エレベーターの正面にあった。エレベーターが近いのは、遺体を搬入したり搬出したりする時のためなのだろう。ドアが観音開きの構造になっていて、左右二枚の扉の両方に「霊安室」と今でも文字が残っている。いよいよだと思うとすうっと血の気が引くような感覚に襲われ、靖男はこの時地下に降りてきたことを後悔し始めた。あのドアを押し開いて中を覗く勇気が、どうやら今の自分には欠けているようだと思いつつ、夢から覚めてからの一連の自分の行為がまるで映画の一シーンを見ているようで、自分の意志がどこまで働いているのか分からなくなった。谷村圭吾も同じような後悔の感情を味わって、ここから引き返したのかもしれないと、靖男は思った。つまらないことをしたものだ。踵を返して、地下になど興味がなかったことにして、ここから立ち去ろうと考えた。靖男が後ずさりした、まさにその瞬間、……。

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